も欲しくて堪らないが、なかなか貰えない。あんな結構な物をムザムザ食うものではないと言って、父はそれを部屋の高い棚に上げてしまった。それから幾日たった後のことか知らんが、父も母もどこかに行って、私ひとり内にいた。フト悪心を起して、踏台を持って来て棚の上の鶴の子を取った。勿論たった一つだった。露見するかどうかと窺《うかが》っていたが、誰も何とも言わない。そうこうする中に、また機会があって一つ取った。とうとう三つ取り、四つ取り、五つ取った。もういよいよ露見しないはずがない。幾ら年寄りがぼんやりでも、五つも不足してるのに気のつかんはずがない。困った、困ったと思いながら、また幾日も幾日も過ぎたが遂に誰も何とも言わなかった。結局、そのことはそれきりで、年寄りなどという者は随分馬鹿な者だくらいに考えていた。そして、ズット後になって、私が自分の浅はかさに思い当って、今さら冷たい汗を流したのは、父も母も亡くなってしまってからのことだった。
 今一つ、私は父の机の抽出しから一円紙幣を盗んだことがある。その頃の一円は少なくとも今の十円の値打ちがあった。子供としては大金であった。私はすぐにそれを持って町に行き、新店《しんみせ》という店で、唐紙《とうし》と白紙をたくさん買った。たくさんと言っても五銭か十銭かだったろう。そして釣がないからと言うので、代は払わずに帰った。唐紙と白紙を買ったのは、その頃、少し文人風の書画の真似をやりかけていたからであった。ところが二、三日後のある日、母が私を連れて屋敷内を歩いていた。何か母が私に言いたいことがあるのだと直感された。私は非常におそろしくなった。しかし母の態度は平生よりも柔《やさ》しかった。竹藪の片わきの、梨の木の下に来た時、母はいよいよ口を切った。「利《とし》さん、ひょっとお前は――」サア来たと私は思った。しかし母は非常に柔しく、非常に遠慮がちに「ひょっと」「ひょっと」を繰返して、そうならそうで仕方がない、決して叱りはせぬから、とにかく素直にそれを出してくれと言った。私は非常な慚愧《ざんき》を感じて、一も二もなく兜《かぶと》をぬいだ。父はそれについて、遂に一言も言わなかった。
 ついでに今一つ私の盗みを書きつけておく。その頃、錦町《にしきまち》のある小間物店で、私は人のそばで遊んでいるようなふりをして、柄のついた小さい虫眼鏡を一つ盗み取った。それを通して物を見ると、何でも素晴らしく大きく見えたので、面白くて仕様がなかった。しかしそれを友達に見せて自慢することも、一緒に面白がることも出来ないのが、非常に残念だった。同時に、もしか露見しやせぬかという恐怖が盛んに起って来た。もうそうなると、ただそれを持ってることだけが大変な苦労で、毎日毎日どうしたものかと心配していた。いっそ元の処に持って行って返そうと決心した。しかし気がつかれないように返すということがまた大変だった。そうこうする中、幸いなことには、ある日どこかでその虫眼鏡を落してしまった。それを落したと気がついた時、私は実にホッとして安心した。



底本:「日本の名随筆49 父」作品社
   1986(昭和61)年11月25日第1刷発行
   1988(昭和63)年1月20日第4刷発行
底本の親本:「堺利彦伝」中公文庫、中央公論社
   1978(昭和53)年4月
入力:もりみつじゅんじ
校正:今井忠夫
2000年11月15日公開
2005年6月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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