の下に行って、銘々に頭と顔とを洗う。しかしその水は甚だ払底で、儀式ばかりのようなものではあるが、何にせよ、我輩らの住んでいる角筈あたりの湯に比べると結構なものだ。
散髪もまたチョットよい気ばらしになる。これは、たいがい二週間に一度くらいのようだ。床屋さんももとより囚人である。湯屋の三助も、医者の助手(看護夫)も、みなやはり囚人だからおかしい。
床屋がまわって来て廊下に陣をとると、一房から十房まで順々に出かけて刈ってもらう。バリカンでただグルグルとやるのだから雑作はない。もちろん顔も剃ってくれる。特に髭を蓄えることを願う者には許しておく。フケトリと鋏も、そこにおいてある。それで爪でも摘みながら見張の看守と話でもしているときには、獄中生活も存外趣味のあるものだ。
面会は囚人にとって非常に愉快のことであるが、あまり再々人が来ると一々には許されぬ。手紙は大概のものは見せられる。百穂君の絵葉書だけは一枚きりしか見せられなんだ。それから中村弥二郎君が予の無聊を慰めんとて、昔話を書いた葉書を寄こされたが、それは「不得要領につき不許」という附箋がついて、出獄のときに渡された。獄中ではただ無事(或は単調)に苦しむのであるから、手紙、面会、入浴、散髪、運動等、何でも少し変ったことがあれば非常に愉快に感ずる。
一〇 食事当番
今一つ気ばらしになったことは、四五日ぶりに一度ずつ食事当番がある。他の監では役夫というものがあって、それが食事の世話やら掃除やらするのであるが、我々の監には無定役囚が多いので、別に役夫はおかずに、その無定役囚の中から、代り代り食事の当番を出すことになっていた。
当番は二人あるいは三人で、まず炊所から運んで来た飯や菜を盛りわけて膳立てをする。鐘が鳴るとそれを各房に配る。食事がすむとあと片づけをする。水を汲んで来て膳碗を洗う。洗物がすむと廊下を掃く。それを一日に三度繰返すのでなかなか風流なものです。まだそれから食事の世話のほかに、流し口の掃除、裏庭の草取りなど、やらせられるときもある。存外おもしろいものです。甚だしきは、みなの者を運動に出す世話をするために、草履箱から草履を出して各房の前に並べてやり、運動が終れば、またその草履を集めて箱に入れてやることもある。これらはズンと風流なものです。
一一 眼鏡、書籍
最初予の一番困ったのは眼鏡をとられたことである。もっとも眼鏡がなくてはなんにも見えぬというほどでもないが、十一度ばかりの近眼で、十余来年寝るときのほか、かってはずしたことのない最親最愛の眼鏡であるから、いま忽然とそれと別れた不愉快は非常である。すぐあとで下げ渡してやるといわれた言葉を楽しみにしていたが、二三日たってヤット眼鏡下付願という手続ができた。モウ占めたと楽しんでいると、また二三日してやっと医者の視力検査があった。モウいよいよだと思うていると、また二三日してようやくのことで下げ渡された。
親子再会とでもいうべき情合で、ただ何となく嬉しく心にぎやかで、かけて見たりはずして見たり、息を吹きかけて拭いて見たりしているうち、どうも少し右の玉のゆがんでいるのが気に食わぬ。隣の人にもそれを見せて、ここを少しコウ曲げて、などといいながら、こわごわ撓めているとき、脆や、ポキリとまんなかの金が折れた。サアしまった! こんな弱ったことはない。「見しやそれとも分かぬ間に、雲かくれにし夜半の月」「たまたま会いは会いながら、つれない嵐に吹きわけられ」失望落胆、真にたとえるにものがなかった。茶碗の破れたのすらつぎあわせて見るのが人情だから、いろいろとやっては見たが、金と金とのつぎ目の折れたのは、指先ばかりではどうにも仕様がない。それでも何とか法のないものかと、様々にいじっているうち、これを糸で結びつけてはという智慧が出た。それから着物の裾のシツケ糸をぬいて、それを二重によりあわせて、ともかくも結びつけた。鼻の上にかけてみると少々工合は変だけれど、物を見るに差支えはない。ああ真にこれで助かった!
眼鏡の待遠かったよりも、更に一層待遠かったのは書籍であった。初日、二日目、三日目、ようやく落つくと同時に退屈する。欲しいほしいはただ書籍である。書籍は教誨師先生よしよしと受込んだきりで容易に運んでくれぬ。一週間あまりすぎてからヤット二冊だけ渡された。
書籍は同時に二冊以上は見せぬという定めだそうな。役のある人ならば、日曜のほかには一日に一二時間しか読書の暇はないのだから、二冊という制限もよいか知らぬが、朝から晩まで本ばかり読む人に、タッタ二冊とは情ない。
しかしマア二冊にせよ本は来たし、こわれたにせよ眼鏡はある。モウ千人力だという心地がした。二冊の本は、
Hyndman : Economics of Sociali
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