の烈しいためか終《つひ》に一聲をも聞かなかつた。
 温泉と云つても沸かし湯であつた。酒や料理は、會社經營の手前か、案外にいいものを出して呉れた。繪葉書四五十枚を取り寄せ知れる限りに寄せ書きをした。
 七月十五日。かれこれしてゐるうちに時間がたつて、十二時幾分かの汽車に乘つた。重い曇ではあるが、珍しく雨は落ちて來なかつた。M――君と私とは長篠驛下車、寒狹川に沿うて鳳來山の方へ溯つて行つた。寒狹川もまた岩を穿つて流れてゐる溪であつた。
 途中、鮎瀧といふがあつた。平常から見ごとな瀧とは聞いてゐたが、今日は雨後のせゐで凄しい水勢であつた。路を下りてそれに近づかうとすると遠く水煙が卷いて來て、思はず面を反けねばならなかつた。
 行くこと二里で、麓の村|門谷《かどや》といふに着いた。見るからに古びはてた七八十戸の村で農家の間には煤び切つた荒目な格子で間口を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らした家なども混つてゐた。山駕籠や、芝居でしか見ない普通の駕籠などの軒先に吊るされてあるのも見えた。とある一軒に寄つて郵便切手を買ひながら山上のお寺に泊めて貰へるか否かを訊ねた。上品な内儀が、泊めては貰へませうが喰べ物が誠に不自由で、とにかく今日の夕飯だけでもこの村の宿屋で召上つてからお登りになつたがいいでせうといふ。
 厚意を謝して其處を出ると直ぐ一軒の宿屋があつた。これも廣重の繪などで見るべき造りの家である。其儘《そのまま》立ち寄らうとしたが、然し其處で夕飯をとるとすると到底今日山へ登る事をばようしないにきまつてゐる。私はいいとしてもM――君は明日はまた山を下らねばならぬ人である。それを思うて、兎にも角にも寺まで行つて見ようといふことになつた。宿屋のはづれに硯を造つてゐる一二軒の家が眼についた。この山の石で造るもので良質の硯の出來るといふ話を聞いたのを思ひ出した。
 黒々と樹木のたちこんだ岩山が眼の前に聳えてゐた。妙義山の小さい形であるが、樹木の茂みが山を深く見せた。宿を外れると直ぐ杉木立の暗い中に入り、石段にかゝつた。僅に數段を登るか登らぬに早やすぐ路の傍へから啼き立つた雉子の聲に心をときめかせられた。
 石段の數は人によつて多少の差はあつたが、いま途中で休んだ茶店の老爺老婆は一千八百七十七段ありますと言下に答へたのであつた。數は兎に角兩人は直ぐ勞れてしまつた。一度二度と腰をお
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