なつて来た。三里も歩いた頃、長沢といふ古びはてた小さな宿場があつた。其処で昼をつかひながら、この宿場にあるといふ木賃宿に泊る事をわたしは言ひ出した。が、今度は中村君の勢ひが素晴しくよくなつた。どうしても予定の通り国境を越え、信州野辺山が原の中に在る板橋の宿《しゆく》まで行かうといふ。
 我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ヶ嶽の南麓に当る広大な原である。所所に部落があり、開墾地があり雑草地があり林があつた。大小の石ころの間断なく其処らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。
 止むなく彼の言ふ所に従つて、心残りの長沢の宿《しゆく》を見捨てた。また、先々の打ち合せもあるので予定を狂はす事は不都合ではあつたのだ。路はこれからとろ/\登りとなつた。この路は昔(今でもであらうが)北信州と甲州とを繋ぐ唯一の通路であつたのだ。幅はやゝ広く、荒るゝがまゝに荒れはてた悪路であつた。
 とう/\雨がやつて来た。細かい、寒い時雨である。二人とも無言、めい/\に洋傘をかついで、前こゞみになつて急いだ。この友だとて身体の労れてゐない筈はない。大分怪しい足どりを強ひて動かしてゐるげに見えた。よく休んだ。或る所では長沢から仕入れて来た四合壜を取り出し、路傍に洋傘をたてかけ、その蔭に坐つて啜り合つた。
 恐れてゐた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が野末をこめて来た。地図と時計とを見較ベ/\急ぐのであつたが、すべりやすい粘土質の坂路の雨あがりではなか/\思ふ様に歩けなかつた。そのうち、野末から動き出した濃霧はとう/\我等の前後を包んでしまつた。
 まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一点の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶予もなくそれを引きあけて中に入つた。
 入つて一杯元気をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる囲爐裏の火、竃の火を見てゐると、何とももう歩く元気は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。囲爐裏で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。
 我等のほかにもう一人の先客があつた。信州海の口へ行くといふ荷馬車挽きであつた。それに亭主を入れて我等と四人、囲爐裏の焚火を囲みながら飲み始めた酒がまた大変なことゝなつた。
 折々誰かゞ小便に立つとて土間の障子を引きあけると、捩ぢ切る様な霧がむく/\とこの一座の上を襲うて来た。

 十一月一日。
 酒を過した翌朝は必ず早く眼が覚めた。今朝もそれであつた。正体なく寝込んでゐる友人の顔を見ながら枕許の水を飲んでゐると、早や隣室の囲爐裏ではぱち/\と焚火のはじける音がしてゐる。早速にわたしは起き上つた。
 まだランプのともつた爐端には亭主が一人、火を吹いてゐた。膝に四つか五つになる娘が抱かれてゐた。昨夜から眼についてゐた事であつたが、この子の鼻汁は鼻から眼を越えて瞼にまで及んでゐた。今朝もそれを見い/\、この子の名は何といひましたかね、と念のため訊いてみた。マリヤと云ひますよとの答へである。そして、それはこの子の生れる時、何とかいふ耶蘇の学者がこの附近に耶蘇の学校を建てるとか云つて来て泊つてゐて、名づけてくれたのだといふ。
「昨晩はどうも御馳走さまになりました」
 と、やがてそのマリヤの父親はにや/\しながら言つた。
「イヤ、お騒がせしました」
 とわたしは頭を掻いた。
 其処へ荷馬車挽きも起きて来た。
 煙草を二三本吸つてゐるうちに土間の障子がうす蒼く明るんで来た。顔を洗ひに戸外《おもて》に出ようとその障子を引きあけて、またわたしは驚いた。丁度真正面に、広々しい野原の末の中空に、富士山が白麗朗と聳えてゐたのである。昨日はあれをその麓から仰いで来たに、とうろたへて中村君を呼び起したが、返事もなかつた。
 膳が出たが、わが相棒は起きて来ない。止むなく三人だけで始める。今朝は炬燵を作りその上で一杯始めたのである。霧は既に晴れ、あけ放たれた戸口からは朝日がさし込んで炬燵にまで及んで居る。
 そしていつの間に出て来たものか[#「来たものか」は底本では「来もたのか」]、見渡す野原も、その向う下の甲州地も一面の雲の河となつてしまつた。富士だけがそれを抜いて独りうらゝかに晴れてゐる。二三日前にツイこの向うの原で鹿が鳴いたとか、三四尺の雪に閉ぢこめられて五日も十日も他人の顔を見ずに過す事が間々あるとか、丁度此処は甲州と信州との境に当つてゐるのでこの家のことを国境といふとかいふ様な話のうちに、おとなしく朝食は終つた。
 困つたのはランプ部屋居士である。砂糖湯を持つて行き、梅干茶を持つて行き、お迎へに一杯冷たいのをぐいとやつて見ろとて持つて行くが、持つて行つたものを大抵飲み干すが、なか/\御神輿が上らない。「とても歩けさうにない、あのお荷物を頼みますよ」とわたしが言つたので荷馬車屋もよう立ちかねてゐる。六時から十時まで、さうして過した。「いつまでもこれでは困るだらう、お前さん先に行つて呉れ」
 と荷馬車屋を立たせようとしてゐる所へ、蹌踉として起きて来た。ランプ部屋ではまだ何処やら勇ましかつたが、今朝はあはれ見る影もない。
 早速出立、実によく晴れて、霜柱を踏む草鞋の気持はまさしく脳にも響く快さである。昨日はその南麓を巡つて来た八ヶ嶽の今日は北の裾野を横切つてゐるわけである。からりと晴れたこの山のいただきにうつすらと雪が来てゐた。
「大丈夫か、腰の所を何かで結《ゆは》へようか」
「大、丈、夫です」
 と、居士は荷馬車の尻の米俵の上に鎮座ましまし、こくり/\と揺られてゐる。
 野原と云つても多くは落葉松の林である。見る限りうす黄に染つたこの若木のうち続いてゐる様はすさまじくもあり、また美しくも見えた。方数里に亙つてこれであろう。
 漸く歌を作る気にもなつた。
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日をひと日わが行く野辺のをちこちに冬枯れはてて森ぞ見えたる
落葉松は痩せてかぼそく白樺は冬枯れてただに真白かりけり
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 二里あまり歩いてこの野のはづれ、市場といふへ来た。此処にも一軒屋の茶店があつた。綺麗な娘がゐるといふので昼食をする事にした。
 其処より逆落しの様な急坂を降れば海の口村、路もよくなり、もう中村君も歩いてゐた。やゝ歩調を整えて存外に早く松原湖に着き、湖畔の日野屋旅館におちついた。まだ誰も来てゐなかつた。
 程なく布施村より重田行歌、荻原太郎君の両君、本牧村より大沢茂樹君、遠く松本市より高橋希人君がやつて来た。これだけ揃うとわたしも気が大きくなつた。昨日一昨日は全く心細かつた。
 夕方から凄じい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我等は陣取つたのであつたが、たび/\その二階の揺れるのを感じた。
 宵早く雨戸を締め切つて、歌の話、友の噂、生活の事、語り終ればやがて枕を並べて寝た。
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遠く来つ友もはるけく出でて来て此処に相逢ひぬ笑みて言《こと》なく
無事なりき我にも事の無かりきと相逢ひて言ふその喜びを
酒のみの我等がいのち露霜の消《け》やすきものを逢はでをられぬ
湖《うみ》べりの宿屋の二階寒けれや見るみずうみの寒きごとくに
隙間洩る木枯の風寒くして酒の匂ひぞ部屋に揺れたつ
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 十一月二日。
 夜つぴての木枯であつた。たび/\眼が覚めて側を見ると、皆よく眠つてゐた。わたしは端で窓の下、それからずらりと五人の床が並んでゐるのである。その木枯が今朝までも吹き通してゐたのである。そして木の葉ばかりを吹きつける雨戸の音でないと思うて聴いてゐたのであつたが、果して細かな雨まで降つてゐた。
 午前中をば膝せり合せて炬燵に噛りついて過した。昼すぎ、風はいよいよひどいが、雨はあがつた。他の四君は茸とりにとて出かけ、わたしは今日どうしても松本まで帰らねばならぬといふ高橋君を送つて湖畔を歩いた。ひどい風であり、ひどい落葉である。別れてゆく友のうしろ姿など忽ち落葉の渦に包まれてしまつた。
 茸は不漁であつたらしいが、何処からか彼等は青首の鴨を見附けて来た。山の芋をも提げて来た。善哉々々と今宵も早く戸をしめて円陣を作つた。宵かけてまた時雨、風もいよ/\烈しい。が、室内には七輪にも火鉢にも火がかつかと熾《おこ》つた。
 どうした調子のはずみであつたか、我も知らずひとにも解らぬが、ふとした事から我等は一斉に笑ひ出した。甲笑ひ乙応じ、丙丁戊みな一緒になつて笑ひくづれたのである。それが僅かの時間でなく、絶えつ続きつ一時間以上も笑ひ続けたであらう。あまり笑ふので女中が見に来て笑ひこけ、それを叱りに来た内儀までが廊下に突つ伏して笑ひころがるといふ始末であつた。たべた茸の中に笑ひ茸でも混つてゐたのか知れない。

 十一月三日。
 相も変らぬ凄じい木枯である。宿の二階から見てゐると湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作つて忽ちにこの小さな湖を掩ひ、水面をかしくてしまふのである。それに混つて折々樫鳥までが吹き飛ばされて来た。そしてたま/\風が止んだと見ると湖水の面にはいちめんに真新しい黄色の落葉が散らばり浮いてゐるのであつた。落葉は楢が多かつた。
 今日は歌を作らうとて皆むつかしい顔をすることになつた。
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木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ
声ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる
樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ
はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は
ひと言を誰かいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ
木枯の吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今宵
笑ひこけて臍《へそ》の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ
笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く
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 十一月四日
 今日はわたしは皆に別れて独り千曲川の上流へと歩み入るべき日であつたが、「わが若草の妻し愛《かな》し」とばかり言ひ張つてゐる重田君の宅を布施村に訪うてそのわか草の新妻の君を見る事になつた。
 やれとろゝ汁よ鯉こくよとわが若草の君をいたはり励まし作りあげられた御馳走に面々悉く食傷して昨夜の勢ひなくみなおとなしく寝てしまふた。

 十一月五日
 総勢岩村田に出で、其処で別れる事になつた。たゞ大沢君は細君の里なる中込駅までとてわたくしと同車した。もうその時は夕暮近かつた。
 四五日賑かに過したあとの淋しさが、五体から浸み上つて来た。中込駅で降りようとする大沢君を口説き落して汽車の終点馬流駅まで同行する事になつた。
 泊つた宿屋が幸か不幸か料理屋兼業であつた。乃ち内芸者の総上げをやり、相共に繰返してうたへる伊那節の唄
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逢うてうれしや別れのつらさ逢うて別れがなけりやよい
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 十一月六日
 どうも先生一人をお立たせするのは気が揉めていけない、もう一日お伴しませう、と大沢君が憐憫の情を起した。そして共に草鞋を履き、千曲川に沿うて鹿の湯温泉といふまで歩いた。
 其処で鯉の味噌焼などを作らせ一杯始めてゐる所へ、裁判官警察山林官聯合といふ一行が押し込んで来た。そして我等二人は普通の部屋から追はれて、台所の上に当る怪しき部屋へ押込まれた。下からは炊事の煙が濛々として襲うて来るのである。
「これア耐らん、まつたくの燻し出しだ」
 と言ひながら我等は膳をつきやつてまた草鞋を履いた。
 夕闇寒きなかを一里ほど川上に急いで、湯沢の湯といふへ着いた。

 十一月七日。
 朝、沸し湯のぬるいのに入つてゐると、ごう/\といふ木枯の音である。ガラス戸に吹きつけられ、その破れをくゞつて落葉は湯槽の中まで飛んで来た。そしてとう/\雨まで降り出した。
 終日、二人とも、炬燵に
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