んで御無用、途方もなく面白く喋つた。
 聽手は勿論頭から醉はされて了つて、母とお兼は既う二三度も繰返して聽かされて居るにも係らず矢張り面白いらしく熱心に耳を傾けて居る。特に最初から私の話對手であつた千代などは全然當てられて、例の瞳はいよいよ輝いて、ともすれば壞《くづ》れやうとする膝を掻き合はせては少しづつ身を進ませて、汗を拭いて、一生懸命になつて聽き入つて居る。お米の方はさすがにこの娘の性質で、同じ面白相に聽いては居たやうだが、相變らず默然とした沈んだ風で、見やうによつては虚心《うつかり》してゐるものゝやうにも見ゆる。顏も蒼白くて、鈍く大きくそして何となく奧の深かり相な瞳のいろ。眼瞼をば時々重も相に開いたり閉ぢたりしてゐる。山家の夜の更けて行く灯の中に斯うしてこの娘が默然として坐つてゐるのに氣が附くと妙に一種の寂しい思ひがして、意味深い謎《なぞ》でもかけられたやうな氣味を感ぜずには居られない。
 語り終つて私は烈しく疲勞を覺えた。聽いて居る人もホツとしたさまで、一時に四邊《あたり》がしんとなる。僅かの薪はもう殆ど燃え盡きて居て、洋燈は切りに滋々《じじ》と鳴つて窓からは冷い山風がみつしりと吹き込んで來る。
 母は氣附いたやうに、兩人の娘に中の間に寢るか次ぎの座敷に寢るかと訊く。何處でもと姉。中の間に一緒がいゝ、二人だけ別に寢るのは淋しいからと妹が主張する。では押入から蒲團を出して、お前達がいゝやうに布くがいゝとのことで、兩人は床とりに座敷に行つた。それを見送り終つて、
「あの事で來たんでせう。」
 と低聲で私は母に訊いた。
「ア、左樣よ。」
「如何なりました、どうしても千代が行くんですか。」
「どうも左樣でなくてはあの老爺が承知をせんさうだ。あの娘はまたどうでも厭だと言つて、姉に代れとまで拗《す》ねてるんだけど、……姉はまたどうでもいゝツて言つてるんけど……どうしても千代でなくては聽かんと言つてる相だ。因業《いんごふ》老爺《おやぢ》さねえ。」
「まるで※[#「けものへん+非」、30−11]々《ひひ》だ。そんな奴だから、若い女でさへあれば誰だツていゝんでせう。誰か他に代理はありませんかねえ、村の娘で。」
「だつてお前、左樣なるとまた第一金だらう。あの通りの欲張りだから、とても取れさうにない借金の代りにこそ千代を/\と言ひ張るのだから。」
 如何にも道理な話で、私にはもうそれに應《こた》へることが出來なかつた。
 兩人の家はもと十五六里距つた城下の士族であつたのだが、その祖父の代にこの村に全家移住して、立派な暮しを立てゝゐた。が、祖父が亡くなると、あとはその父の無謀な野心のために折角の家畑山林悉く他手《ひとで》に渡つて、二人の娘を私の家に捨てゝおいたまま父はその頃の流行であつた臺灣の方に逐電したのであつた。そして二三年前飄然と病み衰へた身躰《からだ》を蹌踉《よろぼ》はせてまた村に歸つて來て、そして臺灣で知合になつたとかいふ四國者の何とかいう聾《つんぼ》の老爺を連れて來て、四邊の山林から樟腦を作る楠と紙を製《つく》るに用ふる糊の原料である空木《うつぎ》の木とを採伐することに着手した。それで村里からは一二里も引籠つた所に小屋懸けして、私の家で從順に生長《おほき》くなつてゐた兩人の娘まで引張り出して行つて、その事を手傳はしてゐた。所が近來その老爺といふのが二人の娘に五月蠅《うるさ》く附き纒ふやうになつて、特に美しい妹の方には大熱心で、例の借金を最上の武器として、その上尚ほその父親を金で釣り込んだうへ、二人一緒になつて火のやうに攻め立てた。それでどうか逃れやうはなからうかと一寸の隙《すき》を見ては私の母に泣きついて來たのであつた相なが、同じやうに衰頽《すゐたい》して來て居る私の家ではなか/\その借金を拂ひもならず、まア/\と當《あて》もなく慰めてゐたのであつたといふが、いよ/\今夜限りで明日の晩から妹は老爺の小屋に連れ込まれねばならぬことになつたのだ相な。
 それでも既《も》う今夜はあの娘も斷念《あきら》めたと見えて、それを話し出した時には流石《さすが》に泣いてゐたけれども、平常のやうに父親の惡口も言はず拗《す》ねもせずあの通りに元氣よくして見せて呉れるので、それを見ると却つて可哀相でと、母は切りに水洟《みづばな》を拭いてゐる。三人とも默然として圍爐裡の火に對して居ると、やがて兩人の足音がして襖が明いた。耐へかねたやうに妹は笑ひ出して、
「伯父さんが、ホヽヽヽヽヽ姉さんを、兄《あん》さんと間違へて、ホヽヽヽヽヽ。」
 蓮葉に立ち乍ら笑つて、尚ほそのあとを云はうとしたらしかつたが、直ぐ自身の事が噂せられた後だと、吾等《わたしら》の素振《そぶり》を見て覺つたらしく、笑ふのを半ばではたと止めて、無言にもとの場所に坐つた。私はそれを見ると耐らなく可哀相になつて來たが、何といつて慰めていゝのかも一寸には解らず、わざとその背後に立つてゐる姉に聲かけて、
「何だ、さも寒む相な風をしてるぢやないか。此方へおいでよ。」
 と、身を片寄せて微笑みながらいふと、同じく微笑んで、例の重い瞼を動かして私を見詰めてゐたが、やがて默つて以前坐つてゐた場所に座をとつた。
「どれ妾はもう寢よう。明朝はお前だちもゆつくり寢《やす》むがいゝよ。」
 と母は立上つて奧へ行つた。お兼もそれを送つて座を立つたので、あとは吾々若いものばかり三人が殘つた。
「兄《あん》さん。」
 と不意に千代は聲かけて、
「蒸汽《じようき》船は大へん苦しいもんだつてが、……誰でも然うなんでせうか?」
「それは勿論人に由るサ、僕なんか一度もまだ醉つたことは無いが……」
 云ひかけて、
「如何するのだ?」
「如何もせんけど……先日《こなひだ》本村《ほんむら》のお春さんが豐後の別府に行つてからそんなに手紙を寄越したから……」
 と何か切《しき》りに思ひ乍《なが》ら云つて居る。
「別府に? 入湯か?」
「イエ、機織の大きな店があつて、其處に……あの人は近頃やつと絹物が織れるやうになつたのだつたが……妾に時々習ひに來よりましたが……」
 談話は切れ/″\の上の空である。で、私は突込んだ。
「行くつもりかい、お前も!」
「イゝ[#「ゝ」はママ]エ!」
 と仰山に驚いて、
「どうして妾が行けますもんけえ!」
 と、つとせき上げて來たと見えて見張つた瞳には既う涙が潮《さ》して居る。
「ウム、大變なことになつたんだつてねえ、どうも……嘸《さ》ぞ……厭やだらう!」
 返事もせずに俯頭《うつむ》いてゐる。派手な新しい浴衣の肩がしよんぼりとして云ひ知らず淋しく見ゆる。まだ幾分酒のせゐが殘つてゐると見えて、襟足のあたりから耳朶《みみたぶ》などほんのりと染つてゐる。
「どうも然し、仕樣がない。全く思ひ切つて斷念《あきらめ》るより仕方がない。然しね、そんな場合になつたからと云つても、自分の心さへ確固《しつかり》して[#「して」は底本では「りして」]ゐたら、また如何とかならうから、そしたら常々お前の言つてたやうに豪くなる時期《とき》が來んとも限らん。第一非常の親孝行なんだから……」
 と言ひかけて、ふと見ると、袂を顏にひしと押當てゝ泣きくづれて居る。
 私はそれを見て、今強ひて作つて云つた慰藉《ゐしや》とも教訓とも何とも附かぬ自分の言葉を酷《ひど》く耻しく覺えた。自己のもとの身分とか又は一家の再興とかいふことに對しては少女ながらに非常に烈しく心を燃やしてゐた彼女にとつては、今度の事件はたゞ單に普通の處女《むすめ》が老人の餌食《ゑじき》になるといふよりも、更に一種烈しい苦痛であるに相違ない。彼女は痛《ひど》く才の勝つた女で、屹度《きつと》一生のうちに郷里の人の驚くやうな女になつてやらねば、とは束の間も彼女の胸に斷えたことのない祈願であつた。才といつた所で、もとより斯んな山の奧で育てられた小娘のことなので、世に謂ふ小才の利くといふ位のものに過ぎなかつた。然し兎に角僅か十七八歳の娘としては不相應な才能を有《も》つてゐるのは事實で、それは附近の若衆連を操縱する上に於ても著しく表はれてゐるらしい。一つは田舍での器量好《きりやうよし》であるがためか隨分とその途の情も強い方で現に休暇ごとに歸つて來る私を捉へて、表《あら》はには云ひよらずとも掬んで呉れがしの嬌態をば絶えずあり/\と使つてゐた。然しあまりに私が素知らぬ振をしてゐるので、さすがに斷念《あきら》めたものか、昨年あたりからはその事も失くなつてゐた。そしてそれ以後は私の前では打つて變つて愼しやかに從順《おとなし》くなつてゐた。
 何時までも泣いて彼女は顏を上げぬ。私も續いて默つてゐた。爐の火は既に殆ど燃え盡きて厚い眞白の灰が窓からの山風にともすれば飛ばうとする樣で、薪形に殘つて居る。座敷の方で煙草盆を叩く音がする。母と老婢ともまた屹度《きつと》この哀れむべき娘のことに就いて、頼り無い噂を交はして居るのであらう。
 お米は妹の泣きくづれて居る側に坐つてゐて、別に深く感動したさまも無く、虚然《うつかり》と、否寧ろ冷然としてそのうしろ髮の邊を見下してゐる。その有樣を見て居ると、今更ながら私は何とも知らずそゞろに一種の惡感《をかん》を感ぜざるを得なかつた。兎角するうちとぼ/\足音をさせてお兼が入つて來た。私は立上つて土間に降りて、そして戸を開いて戸外に出た。
 戸外はまるで白晝《まひる》、つい今しがた山の端を離れたらしい十七夜の月はその秋めいた水々しい光を豐かに四邊の天地に浴びせて居る。戸口の右手、もと大きな物置藏のあつた跡の芋畑の一葉一葉にも殘らずその青やかな光《かげ》は流れてゐて、芋の葉の廣いのや畑の縁に立ち並んでゐる玉蜀黍《たうもろこし》の葉の粗く長いのが、露を帶び乍らいさゝかの風を見せてきら/\搖らいで居る。今までの室内を出て、直ぐこの畑の月光に對した私は一時に胸の肅然となるのを感じた。蟲の音が何處やらの地上からしめやかに聞えて來る。
 そのまま畑に添うて、やがて左手の半ば朽ちかゝつた築地《ついぢ》の中門を潛つて、とろ/\と四五間も降るとこの村の唯一の街道に出る。街道と云つたところで草の青々と茂つた道で、僅かに幅一間もあらうかといふ位ゐ、その前はあまり茂からぬ雜木林がだら/\と坂のままに續いてゐて、終《つひ》に谷となる。谷はいまこの冴えた月のひかりを眞正面《まとも》に浴びて、數知らぬ小さな銀の珠玉をさらさらと音たてゝうち散らしながら眞白になつて流れて居る。谷を越えては深い森林、次いで小山、次いではどつしりと數千尺も天空を突いて聳え立つ某山脈となつて居る。山も森も何れもみな月光の裡に睡つて水の滴り相な輪郭を靜かな初秋の夜の空に瞭然《はつきり》と示して居る。
 私は路の片側に佇んで、飽くことなく此等の山河を見渡してゐた。酒のあと、心を亂した後に不意に斯かる靜かな自然の中に立つて居ると、名の附けやうのない感情、先づ悲哀とでもいふのか、が何處からともなく胸の中に沁み込んで來る。果ては私は眼をも瞑つて宛も石のやうになつて立つてゐた。
 すると背後の中門の所から何時の間に來たのか、
「兄《あん》さん」
 と千代が私に聲かけた。
 返事はせずに振向くと、例の浴衣の姿が半ば月光を浴びてしよんぼりと立つて居る。
「兄《あん》さん、もう皆|寢《やす》みませうつて。」
「ウム、いま、行く。」
 と言つておいて私は動きもせず千代を見上げて居る。千代もまたもの言はず其處を去らずに私を見下して居る。何故《なぜ》とはなく暫しはそのままで兩人は向き合つて立つてゐた。私の胸は澄んだやうでも早や何處やらに大きな蜿※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《うねり》がうち始めて居る。
 やがてして私は驚いた。千代の背後にお米が靜かに歩み寄つて物をも言はずに一寸の間立つてゐて、そうして、
「何してるのけえ?」
 と千代に云つた。
「マア!」
 としたゝかに千代は打驚かされて、
「何しなるんだらう!」
 と、腹立たしげに叱つた。お米は笑ひもせず返事もせぬ。斯くて千代もお米も私も打ち連れて家に入つた。そして臺所の灯をば
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