やうな闇で何にもわからぬ。と、暫《やが》て疊の音がする。此方へ來るのかなと想ふと私は一時にかつと逆上《のぼ》せて吾知らず枕を外して布團を被《かつ》いだ。
程なく千代は私の枕がみに來て、そしてぶる/″\と打慄ふ聲で、
「兄《あん》さん、兄《あん》さん!」
と二聲續けた。そして終《つひ》にその手を私の布團にかけたので、同じく私も滿身に火のやうな戰慄を感じた時、
「千代坊、何|爲《し》てゐるのけえ、お前は!」
とあまり騷ぎもせぬはつきりした聲で、お米が突然云ひかけた。
「アラ!」
と消え入るやうに驚き周章《うろた》へて小さな鋭い聲で叫んだが、直ぐまた調子を變へて、落着かせて、
「何も何も、……灯を點けて……一寸|便所《はばかり》にゆき度いのだから……マツチは何處け。」
と、漸次判然と云ひ來つて、そして更めて起き上つてマツチを探し始めた。お米はもう何も言はぬ。私は依然睡入つた風を裝うてゐたのであつたが、動悸は浪のやうで、冷い汗が全身を浸して居る。やがて千代は便所に行つて來た。そして姉に布團を何とやら云ひ乍ら、又灯を消して枕に着いた。
それから暫くはまた私も睡入られなかつたが、疲勞の極でか、そのうちにおど/\と不覺の境に入つて了つた。
次いで眼を覺されたのが東明時《しののめどき》、頓狂な母の聲に呼び起されて見て、私は殆ど眞青になつた。千代はその時既にその床の中に居なかつた。
書置の何のといふものもなく、逃げたのか、それとも何處ぞで死んでゐるのか、それすら解らぬ。あの娘のことだ、とても死にはせぬ、若し死ぬにしたら人の眼前《めさき》に死屍《しがい》をつきつけてからでなくては死なぬ、どうしても逃げ出したに相違ない、逃げたとすれば某港の方向だ、女の足ではまだ遠くは行かぬ、それ誰々に追懸けて貰へ、と母は既に半狂亂の態である。
然し、私は思つた、一旦逃げ出してみすみす捉へらるゝやうな半間な眞似はあの娘に限つて爲《す》る氣遣はない、とうとうあの娘は逃げ出した、身にふりかゝつた苦痛を脱して、朝夕憧れ拔いて居る功名心を滿足せしむべく、あの孱弱《かよわ》い少女の一身を賭《と》して澎湃たる世の濁流中に漕ぎ出したと。
何よりも早くあの父親に告げ知らせねば、と母は此方にも氣を揉んで、早速若い男を使した。半病人の彼女の老父は殆んど狂人のやうになつて、その片意地に凝り固つた兩眼に憤怒の
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