山寺
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)濕《し》けて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)段々|圍爐裡《ゐろり》の側へ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さん/\と降り注ぐ
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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夕闇の部屋の中へ流れ込むのさへはつきりと見えてゐた霧はいつとなく消えて行つて、たうとう雨は本降りとなつた。あまりの音のすさまじさに縁側に出て見ると、庭さきから直ぐ立ち竝んだ深い杉の木立の中へさん/\と降り注ぐ雨脚は一帶にただ見渡されて、木立から木立の梢にかけて濛々と水煙が立ち靡いてゐる。
其處へ寺男の爺さんが洋燈に火を點けて持つて來た。ひどい降りだ、斯んな日は火でも澤山おこさないと座敷が濕《し》けていけないと言ひながら圍爐裡に炭を山の樣についでゐる。流石に山の上で斯うせねばまた寒くもあるのだ。そして早速雨戸を締めてしまつた。がらんとした廣い室内が急にひつそりした樣であつたが、それも暫しで、瀧の樣な雨聲は前より一層あざやかにこの部屋を包んでしまつた。來る早々斯んな雨に會つて、私は深い興味と氣味惡さとに攻められながらも改めてこの朽ちかけた樣な山寺の一室をしみ/″\と見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]さざるを得なかつた。
爺さんはやがて膳を運んで來た。見れば私の分だけである。先刻《さつき》の峠茶屋の爺さんの言葉もあるので私は強ひて彼自身の分をも此處に運ばせ、徳利や杯をも取り寄せ、先刻茶屋から持つて來た四合壜二本を身近く引寄せて二人して飮み始めた。
爺さんの喜び樣は眞實《まつたく》見てゐるのがいぢらしい位ゐで、私のさす一杯一杯を拜む樣にして飮んでゐる。斯ういふ上酒は何年振とかだ、勿體《もつたい》ない/\といひながら、いつの間にか醉つて來たと見え、固くしてゐた膝をも崩し、段々|圍爐裡《ゐろり》の側へもにぢり出して來た。爺さん、名を伊藤孝太郎といひ、この比叡山の麓の坂本の生れで、家は土地でもかなりの百姓をしてゐたが、彼自身はそれを嫌つて京都に出て西陣織の職工をやつてゐた
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