部としての人間人類を考ふることに私は興味を持つのである。
たゞ、人間の方でいつの間にかその自然と離れて、やがてはそれを忘るゝ樣になり、たま/\不時の異變などのあつた際に、周章《うろた》へて眼を見張るといふところがありはせぬだらうか。
火山の煙を見ることを私は好む。
あれを見てゐると、「現在」といふものから解き放たれた心境を覺ゆる樣である。心の輪郭が取り拂はれて、現在もない、過去もない、未來もない、唯だ無限の一部、無窮の一部として自分が存在してゐる樣な悠久さを覺ゆる。
常にさうであるとは言はないが、折々さうした感じを火山の煙に對して覺えたことがある。自然と一緒になつて呼吸をしてゐる樣な心安さがそれである。心の、身體の、やり場のない寂しみがそれである。
高山のいたゞきに立つのもいゝものである。
一つの最も高い尖端に立つ。前にも山があり、背後にも見えて居る。そして各々の姿を持ち、各々の峰のとがりを持つて聳えてゐる。
靜まり返つたそれら峰々のとがりに、或る一つの力が動いてゐる樣な感覺を覺ゆることが折々ある。峰から峰に語るのか、それらの峰々がひとしく私に向つてゐるのか、とにかくそれらの峰の一つ/\に何か知らの力、言葉が動いてゐる樣な感じを受取つたことが屡々ある。
いま斯う書きながら、囘顧し、空想することに於てもそれと同じいものを感じないではない。
雲が湧く。深い溪間から、また、おほらかにうち聳えた峰のうしろから。
その雲に向つても私は私の心の開くのを覺ゆる。煙の樣にあはい雲、掴《つか》み取ることも出來る樣な濃いゝ雲、湧きつ昇りつしてゐるのを見てゐると、私の心はいつかその雲の如くになつて次第に輕く次第に明るくなつて行く。
眼を擧げるのがいゝ時と、眼を伏せるのゝ好ましい時とがある。更に唯だぢいつと瞑《と》ぢてゐたい時もある。
伏せてゐたい時、瞑《と》ぢてゐたい時、私は其處にかすかに岩を洗ふ溪川の姿を見、絲の樣なちひさな瀧のひゞくのを聽くのである。
溪や瀧の最もいゝのも同じく落葉のころである。水は最も痩せ、最も澄んでゐる。そしてそのひゞきの最もさやかに冴ゆる時である。
捉へどころのない樣な裾野、高原などに漂うてゐる寂しさもまた忘れ難い。
富士の裾野と普通呼ばれてゐるのは富士の眞南の廣野のことである。土地では大野原と云つてゐる。見渡す限り、いち
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