をゆらり/\と搖れてゆく小さな汽船の姿を想像してごらんなさい。

 正月ごとに私の此處に來ますのは、一つはその時に押懸けて來る所謂《いはゆる》年始客から逃るゝためでもあるのですが、本統はその頃此處に來てゐますと梅の花の咲き始めを見ることが出來るからです。
 年の寒さで多少の遲速はある樣ですが、先づ一月の十日には咲き出します。元日に來て既に庭に咲いてゐるのを見て驚いたこともあります。また、この土地にはこの木が非常に多い。一寸出ても家の垣根とか田圃の畔とか、かすかな傾斜を帶びた山の枯草原などに白々と咲いてゐるのが目につきます。或る古い寺があり、其處の竹藪の中にも咲いてゐます。
 梅の花はなか/\散らないもので、あとの方になるといかにも佗しい褪《あ》せざまを見せて來ます。山櫻の花などとは其處はすつかり違つてゐます。が、その咲き始める時はまことにいゝ。一りん二りん僅かに枝に見えそめた時の心持は全くありがたいものです。毎年のことですが、心がときめきます。

 梅の花と共にこのころ此處に來て眼につくのは橙です。また、夏蜜柑です。これも一軒の家には必ず二三本のその木があり、橙は赤く、夏蜜柑は黄いろく、いづれもぎつちりとあの厚い葉の茂つた木になりさがつてゐるのが見えます。
 この果物の熟れてゐる色はいかにも明るい感じのするもので、一寸散歩しても右に左に見えて居るこの色がさながらにこの土肥温泉の色彩の樣な氣がするのです。

 何處の温泉場でも何か土地に相應した樣なものを考案して土産物として賣つてゐますが、土肥では先づ枇杷羊羹でせう。つまり土地に枇杷が多いのです。蜜柑と同じく、ずつと高くまで段々畑が作られてこれが植ゑてあります。正月は褪せながらもまだこの木の寂しい花が葉がくれに見えてゐます。そしてそれに寄り集《つど》うた眼白鳥《めじろ》が非常に多い。
 羽根の青い、眼の縁の白い、親指ほどもないこの小さな鳥は暗い樣な枇杷の木の茂みに幾羽となく入り籠つてちい/\と啼いてゐます。花の蜜に寄るものと見えます。そして、時々この小鳥の群がその枇杷の木を離れて附近の山の櫟林に入り込んでゐるのを見ます。櫟はまた梅が咲くといふのにも枯葉を落さないで、から/\に乾いたまゝの鮮かな色をして山の傾斜に立ち竝んでゐます。
 土肥は斯うした櫟林や、蜜柑畑や、枇杷の畑のある小山を北から東にかけて背負うて、西また南に
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