在の戸山ヶ原を見ると如何にもうら寂しい。その頃は四方野つゞきの、ほんたうの野原の一部であつた。今は工場や住宅に圍まれて野原といふよりたゞの空地といふに過ぎぬ場所になつてしまつた。自づと人出が多いので、下草は踏み荒され、堆《うづたか》かつた落葉なども今は殆んど見るよしがない。
代々木の原は戸山ヶ原より更に粗野な感じを持つてゐた。が、今ではたゞ土埃を捲きあぐる赭土原となり終つてゐる。僅かにその傍の明治神宮の境内に幾分の面影を偲ぶことが出來やうか。
大正二年三年の頃、小石川の大塚窪町に住んでゐた。其處の近くには護國寺の森があつた。寺と皇族墓地との境の窪みが小さな池ともつかぬものになつてゐて、其處に初夏ならば藤の花が咲いて垂れてゐた。これは恐らく今でもあるだらう。其處を出て少し行くと東京市經營の廣い養樹園があつた。公園とか並木とかに植うべき樹木を育つる場所である。殆んど全てが落葉樹であつたゝめ、若芽のころ、落葉のころ、實に柔かな親しい眺めを持つてゐた。園の中に二三條の路があつて自由に通れることになつてゐた。今は全部これが石も土も眞新しい墓地の原と變つてゐる。
それを出外れると鬼子母神の森、これも入口の例の大欅の並木から舊墓地内の杉の落葉など、なつかしいものであつた。私の學生時代のころ、この森に來て杜鵑《ほととぎす》を聞いたこともあつた。(書き落したが前の皇族墓地では春のころよく雉子が鳴いた、これは恐らく今でも聽く事が出來るだらう。)
其處までぶら/\歩いて來ると、若し空でもよく晴れてゐたならば、いよ/\自宅に歸るのがいやになつて、もう少し歩かうといふことになる。そして目白橋を渡つて、左折、近衞公のお邸に行き當つて右折、一二町もゆくととろ/\とした下り坂になつた其處の窪地全體が落合遊園地といふものになつてゐた。それこそ誰も知らない遊園地で、窪地の四方をば柔かな雜木林がとり圍み、中には小さな池があり、池の中の築山には東屋なども出來てゐた。
また、遊園地に入らずにその入口の處から左に折れてゆく下り坂があつた。其處もほそ長い窪地になつてゐて、いろ/\な雜木のなかに二三本の朴《ほほ》の木が立ち混り、夏の初めなどあの大きな白い花が葉がくれに匂つてゐたものである。降りきつた右手の所に、藤の古木があるので藤稻荷と呼ばれてゐる稻荷の祠があつた。(今でもこれはあるだらう。)その境内も
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