峯とは可笑しな名だと思ひながら問ひかへすとさういふ名のお寺で、もとその寺から例の灰吹を作り始めたとかいふことだといふ。
 びしや/\と三人雨の中を歩き出したが、明るむどころかます/\ひどい降りである。我等はどうせ濡れる覺吾の尻端折だが、足駄ばき長裾の法月君にはいかにも氣の毒であつた。名物の安倍川餅屋が安倍川橋の袂にあつて、大きな老木の柳のみどりがその門におほらかにそよいでゐた。法月君にすすめられたが、先づ/\先きの芋汁を樂しみに餅だけは割愛する事にして橋にかゝつた。隨分長い橋である。横飛沫の傘の蔭から見る川上の方に、これもこの邊の名所の木枯の森といふのが川原の中に見えた。
 歩くこと二里ばかり、丸子の宿は低い藁屋の散在してゐる樣な古驛であつた。宿《しゆく》はづれの小川の橋際に今は唯だ一軒だけで作つてゐるといふとろゝ汁屋にとろゝを註文しておいて其處から右折、四五町して吐月峯に着いた。先づ小さな門を掩うてゐる深々しい篁《たかむら》が眼についた。そしてその篁の蔭には一二本づつの椿と梅とが散り殘つて、それに幾羽とない繍眼兒《めじろ》が啼き群れてゐた。門を入ると、泉水から續いた裏の山に山櫻の大きいのが二本ばかり、二分三分咲きかけてゐるのが見えた。花も莟もいいが、ことに雨に濡れていよ/\柔らかな薄紅色にそよいでゐる若葉が何ともいへず美しかつた。法月君と知合らしい住職は留守であつたが、通された部屋で暫く休んだ。寺とは云つても謂はゞ庵で、造りも小さく、年代も餘程古寂びてゐた。土地の有志たちは目下この由緒ある建物のすたれるのを惜んでとり/″\に修繕費募集中であるさうだ。
 庭も同じく小さなものであるが如何にも靜かに整つた寂びたものであつた。一帶の造りが京都の銀閣寺の庭に似てゐるのでその事を法月君に話すと、この庵を結んだ人は足利義政に愛せられた人で、現に庭先を圍んでゐる篁の竹などもわざ/\嵯峨から持つて來て植ゑたものなのださうだ。かすかに池に音を立てゝ降り頻つていゐる雨を、またその雨の中に折々忍び音に啼いてゐる小鳥を聽いてゐると、もうとても宇津《うつ》の谷《や》峠を越して行く氣分がなくなつてしまつた。
 先のとろゝ汁屋に歸つてその名物を味つた。とろゝ屋と云へばよく聞えるが實際は一膳飯屋が好みに應じて作るとろゝ汁なのである。それにもう季《とき》も過ぎてゐるし、確かに名物に何とやらの折紙で
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
若山 牧水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング