ねても小波ひとつ立つて居やうとも思はれなかつた。不思議とまた、いつもは必ず二つか三つ眼につく發動船も小舟も一向に影を見せなかつた。入江に沿うたこちら側の長い松原の蔭には萼ばかりが散り殘つてゐる樣な桃の畑が濕り深い空氣の中に氣味惡い赤味を帶びて連り渡つてゐた。
 ふところから小さな壜を取り出すと、一二杯續けてウヰスキーを飮んだ。重い曇りの底を吹くともなく吹いてゐる風は、ことに山の上だけに相當に寒かつた。一杯二杯と續けてゐるうちに、ぽつりと冷たいものが額に當つた。氣をつけると袖にも足袋にも小さな雨が降つてゐる。然し眞上の空は青みこそ無けれいかにも明るく晴れてゐるので、私はそのまゝぼんやりと海を見ながら盃をなめてゐた。幾らかづつ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゆく酒の醉は次第に心を靜かにし、眼さきを明らかにしてゆくのであつた。
 が、終《つひ》にあたりの葉の深い松の木を探してその蔭に引込まねばならなかつた。急に雨の粒が大きく荒くなつて來たのである。然し、一度落ち着いた心持を撥《はじ》き立てるほどの降りかたでもなかつた。松の蔭に入ると、惜しいことには海は見えなくなつた。そして、小松のことで、眞直ぐにしやんと坐つてゐることも出來なかつた。前くぐみになりながら片手に持つた小壜の酒は不思議な位ゐ減りかたが遲かつた。壜を持つたまゝ、片手で新聞包を開いて澤庵をつまみ握飯にも手をつけるのだが、それでもなか/\盡きなかつた。
 次第にあたりの松の葉が濡れて行つた。それ/″\の小松のそれ/″\の枝のさきにはいづれにも今年の新しいしん[#「しん」傍点]がほの白く伸びてゐる。淡い緑のうへに白い粉を吹いた樣なその柔かなしん[#「しん」傍点]のさきにはまた、必ず桃色か紅色の小さな玉が三つ四つづつ着いてゐた。露ほどの大きさで紅色の美しいのもあり、既に松かさの形をして紅ゐの褪《あ》せてゐるのもあつた。それに微かに雨がそゝいでゐるのである。また、枯草の中には眞紅なしどみの花が咲いてゐた。濡れた地べたにくつ着いたまゝ、勿體《もつたい》ない清らかな色に咲いてゐる。
 帽子のさきに垂れてゐる松の葉のさきからぼつり/\と雫が垂りだした。まだ然し羽織の袖は充分には濡れて來ない。幾度かすかして見る壜の底にはまだ少量の酒が殘り、寧ろ海苔の握飯の方が先に盡きかけた。心はいよ/\靜かに明るく、あたりの木も草も、眞直ぐに降る山窪の雨の白さも、みな極めて美しい眺めとなつて來た。
『燕!』
 私は思はず聲に出して、自分の前の山合にまひ降りてはまた高くまひ上つてゆく小さな鳥に眼をとめた。まつたくそれは今年初めて見る燕の鳥であつた。
『來たなア』
 さう思ひながら私は松の蔭に這ひ出して行つた。
 一羽、二羽、三羽と續いてその身輕な鳥は眞青な小松の原を渡つてゐるのだ。
 幸ひと雨は晴れて來た。急に輝いて見える伊豆の山の白雲の蔭の海の色は山の根だけ日本刀の峰などに見る青みを宿し、片側の廣い部分にはさら/\として細かな波を立て始めてゐた。



底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
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