其處から湖までたしか二里か二里半の登りであつたと思ふ。その間、多くは松や落葉松の植林地を行くのであるが、その林の中に郭公がよく啼いた。松林を通り越すと、一里四方もありさうな廣い草原が見出された。其處の山窪の上の空には夏雲雀が無數に啼いてゐた。その草原を通り過ぎると湖の輝きが岸の木立がくれに見えて來るのだ。
 湖岸に在る宿屋も氣持のいゝものであつた。宿の前の湖でとれた魚や蜆《しじみ》をいろいろに料理してたべさせてくれたのも嬉しかつた。私の行つた日の夕方からはら/\と雨が落ちて來て、翌朝はまたこの上ない晴であつた。
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みづうみのかなたの原に啼きすます郭公の聲ゆふぐれ聞ゆ
湖《うみ》ぎはにゆふべ靄《もや》たち靄のかげに魚の飛びつつ郭公きこゆ
吹きあぐる溪間の風の底に居りて啼く郭公の煙らひきこゆ
となりあふ二つの溪に啼きかはしうらさびしかも郭公聞ゆ
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 それは山上の湖、これは例の『あやめ咲くとはしほらしや』の唄で潮來《いたこ》あたりの水の上を船で※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたも同じく初夏の頃であつた。香取の宮から河とも湖ともつかぬ所を漕いで鹿島の宮へ渡り、更に浪逆《なさか》の浦を潮來へ横切る時には小雨が降つてゐた。『潮來出島の眞菰のなかで』といふ眞菰や蒲の青々した蔭にはあやめはやゝ時過ぎてゐたが、薊《あざみ》の花の濃紫が雨に濡れて咲き亂れてゐた。舟はあやめ踊を以て聞えて居る潮來の廓《くるわ》の或る引手茶屋の庭さきの石垣下に止つた。そして船頭の呼ぶ聲につれて茶屋の小女は傘を持つていそ/\舟まで迎ひに來たのであつた。
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明日漕ぐと樂しみて見る沼の面の闇のふかみに行々子《よしきり》の啼く
わが宿の灯かげさしたる沼尻の葭《よし》のしげみに風さわぐなり
苫蔭にひそみつつ見る雨の日の浪逆《なさか》の浦はかきけぶらへり
雨けぶる浦をはるけみひとつ行くこれの小舟に寄る浪聞ゆ
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 さきに私は若葉の頃になれば旅をおもふといふことを書いた。さういふ言葉の裏にはその季節に啼く鳥の聲、山ふかく棲むいろいろな鳥の啼聲をおもふ心がかなり多分に含まれてゐるのを自分では感じてゐる。
 先づ郭公である。次いで杜鵑である。筒鳥である。呼子鳥である。その他山鳩の啼く音、駒鳥の啼く音、それからそれと思ひ出されて來て、斯う書いてゐながらも何處やらにそれらの鳥のそれぞれの寂しい聲の聞えてゐるのを感ずるのだ。まつたく若葉のころの山にはいろ/\な鳥が啼く。しかも何處にか似通つた韻律を持ち、その韻律の中にはまた同じ樣な寂しさが含まれてゐるのを思ふ。杜鵑、駒鳥は鋭くて錆び、郭公、筒鳥、呼子鳥、山鳩のたぐひはすべて圓みを帶びた聲の、しかも消しがたい寂しさをその啼聲の底に湛へてゐる鳥である。筒鳥と呼子鳥とは同じものだといふ人もあるが、よく聞くと矢張り違ふ。筒鳥は大きく、呼子鳥の聲は小さい。初め私はこれを親鳥雛鳥のちがひだと思うたが、耳を澄ませば確かに違つて居る。筒鳥は大きく、呼子鳥は小さい。一は晝間の日の光りかがよふ溪間によく、一は日暮方の木立の奧に聞くべき鳥である。杜鵑は空を横切る姿がよく、思はずも聞きつけたその一聲二聲が甚だいゝ。續けば或は耳につくかも知れない。郭公のたぐひには私は終日耳を傾けてなほ飽きない。
 それらの鳥を最も多く聞いたのは山城の比叡山々中の古寺に泊つてゐた時であつた。彼處は全山が寺領で、それこそ空を掩ふ大きな杉がぎつちりと生ひ茂り、銃獵を許さぬのであゝまで鳥が多いのだらうと思はれた。然し、少し山深い所に行けば大抵の所ではこのうちのどれかは聞ける。郭公はなかなか姿を見せぬ鳥だといふが、上州の草津から信州の澁へ白根山の中腹を縫うて越した時、其處の噴火の山火事あとの落葉松林の梢から梢へ移る姿を見た。年老いた案内者は、『はアあれかね、あれはハツポウ鳥だよ』と事もなげに言ひすてた。澁峠の頂上に近づくと五月の中ばすぎといふに、雪は一面に栂《とが》や樅《もみ》の森林を埋めつくし、その梢ばかりが僅かに表はれてゐる荒涼たる原野の樣な中で、杜鵑と郭公とはかたみがはりに啼いてゐたのであつた。
 山深いところなどで不圖《ふと》聞きつけた松風の音や遠い谷川のひゞきに我等はともすると自分の寄る邊ない心の姿を見るおもひのすることがある。然し、松風や水のひゞきは終《つひ》に餘りに冷たく、餘りに寄る邊ないおもひがしないではない。それに比べて私は遙かにこれらの鳥の啼く音に親しみを持つのである。カツコウ、カツコウと啼くあの靜かな寂しい温かい聲を聞いてゐると、どうしても私は眼を瞑ぢ頭を垂れ、其處に自分の心の迷ひ出でて居る寂しさ温かさを覺えずにはゐられないのだ。
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うき我を
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