。もう二月も末、恐らくこの儘《まま》に過ぎてしまふ事であらう。朝夕の惶しさがこの靜かな花に向ふ事を許さぬのである。
その三
『山櫻の歌』が出た。私にとつて第十四册目の歌集に當る。
此處にその十四册の名を出版した順序によつて擧げて見よう。
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海の聲 (明治四十一年七月) 生命社
獨り歌へる (同 四十三年一月) 八少女會
別離 (同 年四月) 東雲堂
路上 (同 四十四年九月) 博信堂
死か藝術か (大正 元年九月) 東雲堂
みなかみ (同 二年九月) 籾山書店
秋風の歌 (同 三年四月) 新聲社
砂丘 (同 四年十月) 博信堂
朝の歌 (同 五年六月) 天弦堂
白梅集 (同 六年八月) 抒情詩社
寂しき樹木 (同 七年七月) 南光書院
溪谷集 (同 七年五月) 東雲堂
くろ土 (同 十年三月) 新潮社
山櫻の歌 (同 十二年五月) 新潮社
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となるわけである。この間に『秋風の歌』まで七歌集の中から千首ほどを自選して一册に輯めた
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行人行歌 (大正 四年四月) 植竹書院
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があつたが間もなく絶版になり、同じく最初より第九集『朝の歌』までから千首を拔いた
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若山牧水集 (大正 五年十一月) 新潮社
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との二册がある。
處女歌集『海の聲』出版當時のいきさつをばツイ二三ヶ月前の『短歌雜誌』に書いておいたから此處には略《はぶ》くが、思ひがけない人が突然に現はれて來てその人に同書の出版を勸められ、中途でその人がまた突如として居なくなつたゝめ自然自費出版の形になり、金に苦しみながら辛うじて世に出したものであつた。私が早稻田大學を卒業する間際の事であつた。
『獨り歌へる』は當時名古屋の熱田から『八少女』といふ歌の雜誌を出して中央地方を兼ね相當に幅を利かしてゐた一團の人たちがあつた。今は大方四散して歌をもやめてしまつた樣だが、鷲野飛燕、同和歌子夫妻などはその頃から重だつた人であつた。その八少女會から出版する事になり、豫約の形でたしか二百部だけを印刷したものであつた。形を菊判にしたのが珍しかつた。
程なく私は當時東雲堂の若主人西村小徑(いまの陽吉)君と一緒に雜誌『創作』を發行することになり、その創刊號と相前後して『別離』を同君方から出すことになつた。意外にこれがよく賣れたので、その前の二册はほんの内緒でやつた形があり、かた/″\で世間ではこの『別離』を私の處女歌集だと思ふ樣な事になつた。また、内容も前二册の殆んど全部を收容したものであつた。これの再版か三版かが出た時に金拾五圓也を貰つて私は甲州の下部温泉といふに出向いた事を覺えて居る。歌集で金を得たこれが最初である。
『創作』の毎月の編輯に間もなく私は飽いた來た。そしていはゆる放浪の旅が戀しく、三四年間で日本全國を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るつもりで先づ甲州に入り、次いで信州に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。かれこれ半年もそんなことをしてゐるうちにまた東京が戀しくなつて歸つて來て出版したのが『路上』である。これは當時小石川の竹早町に主として古本を買つてゐた博信堂といふ店の主人が或る紙屑屋から古人尾崎紅葉の未發表の原稿を手に入れたといふのでそれで大いに當てる積りで急に出版を始め、案外にも失敗して困つてゐた頃太田水穗さんの紹介でその店から出すことになつたのであつた。これには珍しく油繪の口繪が入つてゐる。私の歌集に肖像寫眞以外斯うした口繪の入つてゐるのはこの一册だけである。この口繪に就いて思ひ出す。出版する少し前に山本鼎君と一緒に數日間下總の市川に遊びに行つてゐた。或日同君が江戸川べりの榛《はん》の若芽を寫生すると云つて畫布を持ち出したのについて行き、その描かれるのを見てゐるうちに私は草原に眠つてしまつた。それを見た同君は急に榛の木をやめて眠つてゐる私を寫生してしまつた。サテ東京へ引上げようとなつて宿屋の拂ひが足りず、その繪を其處に置いて歸つた。それを博信堂の主人と共に幾らかの金を持つて出懸けて受取つて來て三色版にしたのであつた。原畫は私が持つてゐたのだが、富田碎花君がいつしか持ち出し、それをまたその愛人だかゞ持ち出し、思ひがけない何處か長崎あたりへ行つてゐるといふ話をあとで聞いた。
『死か藝術か』に就いても思ひ出がある。喜志子と初めて同棲して新宿の遊女屋の間の或る酒屋の二階を借りてひつそりと住んでゐた。その頃彼女は遊女たちの着物などを縫つて暮してゐたのでそんな所に住む必要があつたのだ。一緒になつて幾月もたゝぬところに私の郷里から父危篤の電報が來た。其處で周章《うろた》へて歌を纒《まと》めて東雲堂へ持ち込み、若干の旅費を作つて歸國したのであつた。で、この本の校正をば遠く日向の尾鈴山の麓でやつたのであつた。最初の校正刷を郵便屋の持つて來た時、私は庭の隅の据風呂に入つてゐて受取つた。そして濡れた手で封を切つてそれを見ながら、何となしに涙を落したことを覺えて居る。
郷里には一年ほどゐた。一時よくなつた父がまた急にわるくなつて永眠したあと、いつそ郷里で小學校の教師か村役場にでも出て暮らさうかなどとも考へたのであつたが、矢張りさうもならず、五月ごろであつた、非常に重い心を抱いてまた上京の途についた。そしてその途中、前から手紙などを貰つてゐた伊豫岩城島の三浦敏夫君を訪ふことにした。先づ伊豫の今治《いまはる》に渡り、それから瀬戸内海の中の一つの小さな島に在る同君宅を訪ねて行つた。勸めらるゝまゝに同家の別莊風になつた一軒に暫く滯在してゐた。海の上に突き出しになつた樣な部屋は實に明るくて靜かであつた。フツと私は其處で郷里に歸つてゐた間に詠んだ歌を一册に纒めて見たいと思ひついた。そして荷物を解いてノートを取り出し一首々々清書し始めたのであつたが、それは私にとつて意外にも苦しい事業である事を知つた。郷里の一年間は異樣に緊張した感傷的な、また思索的な時間を私に送らせたのであつた。だから詠んだ歌にしろ、いつか平常の埒《らち》を放れて一首が四十四五文字もある樣なものになつたり、雅語から離れて口語になつたり、今までにない變體なものばかりが出來てゐた。それを、その郷里から離れてそんな一つの島の岸の靜かな所で見直し始めたので、周圍の環境が急變したゝめに、己れ自身自分の心の姿に驚いたのであつた。一首を寫し二首を清書してゐるうちに、全く息のつまる樣な苦しさを覺えて來た。後には飯が食へなくなつた。それを見て三浦君がひどく心配し、では私が清書しませうと云つて、大半彼が代つて寫しとつて呉れたのであつた。それを持つて上京して、當時『ホトトギス』を發行してゐた籾山書店に頼んで出版したのが『みなかみ』であつた。この歌集は私のものゝ中でも最も記念すべきものである樣に思はるゝ。その前の『死か藝術か』あたりから多少づつ變りかけてゐた私の詠歌態度が、この集に於て實に異樣に緊張して變つて來てゐるのである。『みなかみ』が出ると世間で例の破調問題が八釜敷くなり、短唱だの何だのといふものが行はるゝ樣になつた。
『みなかみ』の次に出したのが『秋風の歌』であつた。
『みなかみ』を瀬戸内海の島で編輯してゐた時のことで書き落した一事がある。餘りに急變した自分自身の歌の姿に驚いた私は、一首を書いてはやめ、二首を清書しては考へ込み、一向に爲事《しごと》の捗《はかど》らぬその間にまた行李を解いて萬葉集を取り出してぼつ/\と讀み始めた。心を靜めたいためとひとつは古來の歌の姿をさうした場合にとつくりと眺め直して見度いためであつた。そしてこの事は一層私に歌集清書の筆を鈍らしたのであつた。
とかくして出來上つた『みなかみ』の原稿を持つて上京した私は、程なく小石川の大塚窪町に家を借り、一時信州の里へ歸してあつた妻子(その間に長男が生れてゐた)を呼んで、初めて家庭らしい家庭を構ふることになつた。そして其處に永い間の獨身時代の自由や放縱やまたは最近一二年間の歸省時代の妙に緊張してゐた生活と異つた朝夕が始まつた。鎭靜があり、疲勞があつた。さうした一年間のあひだに詠まれたものが『秋風の歌』である。これは『みなかみ』の奔放緊張は急に影を消していかにも懶《ものう》い寂寥が代つて現れて居る。この本は友人郡山幸男君の經營してゐた新聲社といふのから出したのであつたが、程なく閉店したゝめ、同君の手により他の何とかいふ本屋の手にその紙型は渡つて今でも其處から出版されてゐるさうである。散文集『牧水歌話』も亦た同樣であつた。
『秋風の歌』で見るべきは、最初『海の聲』あたりから『路上』に及ぶまで殆んど感傷一方で詠んで來たものが『死か藝術か』に及んで(その名の示すが如く)多少の思索味を加へて來、『みなかみ』で一層その熱を加へてやがて本書に及んでるのであるが、これには熱叫するといふ樣なところがなく、たゞ在るがままの自分を見詰めて歌つてゐるといふ形に表れてゐる事などであらう。
大塚窪町に住んでゐる間に妻が病氣になつた。轉地を要するといふので相模の三浦半島に移り住んだ。大正三年の二月末であつた。そして其處で詠んだものを輯めたのが『砂丘』である。これにはいかにも物蔭に隱れて勞れを休めてゐるといふ樣な、か弱い感傷から詠まれたものが大部分を占めて居る。春の末から夏にかけての景象を歌つたものが多く、いはゞ「夏の疲勞」とも謂ふべき歌集であつた。前に『路上』を出した博信堂主人が一度悉く失敗した後、琴の音譜の本を出して大いに當て日本橋の方に引越して開業してゐる店から出版したのであつた。今でもその當時の樣にこの店が繁昌してゐるかどうか其後一向に消息をしらない。
次が『朝の歌』である。『砂丘』と同じく三浦半島北下浦の漁村で詠んだ歌が大半を占め、東北地方の旅行さきで出來たものが加はつてゐる。同じ三浦半島で詠んだものではあるが、前の『砂丘』とは歌の性質がすつかり變つてゐる。前と違つて歌に生氣がある。しかも『みなかみ』の樣に神經質のそれでなく、おほどかな靜かな力を持つた生き/\しさであると思つて居る。この歌集あたりから私の詠風といふ樣なものがほぼ一定して來たのではないかと考へらるゝ所がある。最近の著『くろ土』『山櫻の歌』はまさしくこの『朝の歌』直系の詠みぶりであると見ることが出來るのである。さういふ所から前の『みなかみ』とはまた異つた意味で私には忘れ難い一册である。これは神樂坂に天弦堂といふを開いてゐた中村一六君の書店から出したのであつたが、これも程なく閉店し、紙型は他へ轉賣せられてしまつた。同じ店から出した散文集『和歌講話』また然りである。
いつまでもその漁村に引込んでゐるわけにゆかず、大正五年の夏から私だけ上京して本郷の下宿に住んで原稿などを書いてゐた。その間に出來た歌を輯めたのが『白梅集』である。これはまた歌の姿が『朝の歌』とは急に變つてゐるのが不思議なほどだ。ひどく神經衰弱的で、そしてすべてが絶望的な主觀で滿ちてゐる。謂はゞ『みなかみ』をきたなくした樣なもので、それだけまた鋭くなつたとはいへるであらう。
これは妻の歌との合著になり、内藤※[#「金+辰」、第3水準1−93−19]策君の抒情詩社から出したものであつた。當時妻も恢復して上京し、小石川の金富町に住んでゐた。
『寂しき樹木』はその次、巣鴨の天神山に移つた頃、出したものであつた。これはよく『砂丘』の詠みぶりに似通つたもので、即ち夏の輝やかしさとその光の中に疲れて居る自分の心とを詠んだ歌が一册の基調をなしてゐる。細いけれど、何處にか光を含んだものとしてこの本を振返ることが出來る。これは本郷邊の印刷所に勤めてゐた青年が(その以前籾山書店にゐた關係から歌集出版などに眼をつけてゐたと言つてゐた)突然訪ねて來て叢書の中の
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