はもう草刈時でもないが兎に角あそこまでは細い道がついてゐる、あそこまで登つて、そしてまア頂上まで行つたつもりになつて其處から降りて來るのだ、あれから先は路もないし、とても深い森でなか/\登れるわけのものでない、ムグラツトまで行つたにしても歸りは夜に入るが、兎に角麓の村まで出て來ればまたどうとでもなるだらう、と言ふのだ。
兩人《ふたり》は顏を見合せたが、それでも水神樣にゆくよりその方が多少心を慰められる氣がしたので、若者に禮を言ひ捨てゝ急いでその森の中の枯草の野へ向けて足を速めた。それからは兩人とも急に眞劍にならざるを得なかつた。腹も空いたが大事をとつてムグラツトまでは辨當を開かぬ事とし、もう今までの無駄口も自づと消えて只だひたすらに急いだ。間もなく流石《さすが》に長かつただらだら登りも盡きて山らしい坂になつた。畑もなくなり、人影も見えなくなつた。ともすれば見失ひがちの小徑は水の涸れた谷をあちこちと横切つて多く笹の原の中を登つて行つた。そして程なく鬱蒼たる森林地に入り込んだ。
裾野の廣いのに驚いたと同じく、この中腹からかけての森の大きく美しいのもまた私を驚かした。
沼津あたりから見るのでは、中腹以上が一帶にうす黒く見渡されて其處が森をなしてゐることだけはよく解るが、たゞ普通の灌木林か乃至《ないし》は薪炭を作る雜木林位ゐにしか考へられなかつた。いま眼の前に見るその森の木は灌木どころかすべて一抱へ二抱への大木で、多くは落葉樹、そしてもうその紅葉は半ばすぎてゐた。しかも眼の及ぶ限りその落葉しかけた大木が並び連つて寂然《じやくねん》とした森をなしてゐるのである。少し樹木の開けた所から見れば、峯から谷へ、谷から峯へ、峯から峯へ、すべて山の窪み高みを埋めつくして鬱然と押し擴がつてゐるのであつた。
樹木好きの、森好きの私はそれを見るに及んで、一時沈み切つてゐた元氣を急に恢復した。昨今頻りに散り溜りつゝある眞新しい落葉をざく/\と踏みながら、ほんとに檻から出た兎の樣な面白さで、這ひながら走りながらその深い/\森の中の木がくれ徑を登つて行つた。考へて見れば其處の森は御料林の一つで、今時珍しい木深さなども故あることであつたのだ。
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大君の御料の森は愛鷹《あしたか》の百重《ももへ》なす襞《ひだ》にかけてしげれり
大君の持たせるからに神代なす繁れる森を愛鷹は持つ
この山のなだれに居りて見はるかす幾重の尾根は濃き森をなせり
蜘蛛手なす老木の枝はくろがねのいぶれるなして落葉せるかも
時すぎて今はすくなき奧山の木の間の紅葉かがやけるかな
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一しきりその森を登つてゆくと間もなくそのムグラツトに出た。これも遠目と違つてなか/\大きな草原であつた。荒々しく枯れ靡いてゐる草を押し分けて――もうその草原に來ると路は絶えてゐた――その一番高い所まで登つてゆくと、其處に兩人ともがつくり倒れてしまつた。
たのしみ/\手をつけずに持つて來た二合壜の口を開いて喇叭飮《らつぱのみ》を始める頃になると、漸く私にも眼を開いて四方の遠望を樂しむ餘裕が出て來た。よく晴れた日で、前面一體には駿河灣が光り輝き、その左に伊豆半島、右手に御前崎が浮び、山の麓の海岸には沼津の千本松原からかけて富士川の川口の田子の浦、少し離れて三保の松原も波の間に浮んで見える。明るい大きな眺めであるが、矢張り富士の見えないのが寂しかつた。その富士はツイ自分等の背後峯の向うに立つてゐる筈なのである。
酒の勢、腹の滿ちた元氣で、我等はまたその草原から上の森林の中へ入り込んで行つた。今來た道を沼津へ出ようとすればこそ夜にもなるが、頂上から最も手近な麓の村へ一直線に降りる分にはどうにか日のあるうちに降りられやう、頂上には小さなお宮があると聞くので、屹度《きつと》何處へか通ずる道があるに相違ない、折角此處まで來て富士を見ぬのは何とも氣持の惡い話だといふ樣な事から、時計が既に午後の二時をすぎてゐるのにも構はず、それこそ脱兎の勢で登り始めたのであつた。
既に草原に絶えた路はそれ以上にある筈はなかつた。然し、大體の見當では其處の一つの尾根を傳つてさへ行けば十町か二十町の間に必ず頂上へ出るといふ見込をつけたのであつた。もう樹木を見るの紅葉を見るのと云ふのでなかつた。また、其處から上はやがて樹木は絶えて打續いた篠竹の原となつていた。一間から二間に伸びたその根の方を殆んど全く這ひ續けて分け登つたのであつた。
辛うじて頂上に出た。案の如く富士山とぴつたり向ひ合つて立つことが出來た。然し、最初考へたが如く、一絲掩はぬ富士の全山を其處から見ると云ふことは不能であつた。たゞ一片の蒲鉾《かまぼこ》を置いた樣にたゞ單純に東西に亙つて立つてゐるものと想像してゐたこの愛鷹山には、思ひのほか
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