の奧山が連り聳えてゐるのであつた。沼津邊からはたゞその前面だけしか見えぬのだが、その背後に寧ろ前面の頂上よりも高いらしい山嶺が三つ四つごた/\と重つてゐるのであつた。しかも自分等の立つた頂上からも最も手近に聳えた一つの峯は我等の立つてゐる山とは似もつかず削りなした樣な嶮しい岩山であつた。その切り立つた岩山を抱く樣にして、大きく眞白く、手に取る樣な眞近な空にわが富士山は聳え立つてゐるのであつた。しげ/\とそれを仰いで坐つてゐると、我等の登つて來たとは反對の山あひに幾疋か群れてゐるらしい猿の鳴くのが聞えて來た。
眞裸體の富士山を見ようといふねがひは前の愛鷹山で見ごとに失敗した。然し、何處かでさうした富士を見ることが出來るであらうといふ心はなか/\に消えなかつた。
そして寧ろ偶然に足柄と箱根との中間にある乙女峠を越えようとしてその願ひを果したのであつた。私はその時箱根の蘆の湖から仙石原を經て御殿場へ出ようとしてこの峠にかゝつたのであつた。乙女峠の富士といふ言葉を聞いてはゐたが實はその時極めてぼんやりとその峠へ登つて行つたのであつた。當時の事を書いた紀行文を左に拔萃《ばつすゐ》する。
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登りは甚だ嶮しかつたが、思つたよりずつと近く峠に出た。乙女峠の富士といふ言葉は久しく私の耳に馴れてゐた。其處の富士を見なくてはまだ富士を語るに足らぬとすら言はれてゐた。その乙女峠の富士をいま漸く眼のあたりに見つめて私は峠に立つたのである。眉と眉とを接する思ひにひた/\と見上げて立つ事が出來たのである。まことに、どういふ言葉を用ゐてこのおほらかに高く、清らかに美しく、天地にたゞ獨り寂しく聳えて四方の山河を統《す》ぶるに似た偉大な山嶽を讚めたゝふることが出來るであらう。私は暫く峠の眞中に立ちはだかつたまゝ、靜かに空に輝いてゐる大きな山の峯から麓を、麓から峯を見詰めて立つてゐた。そして、若しその峠へ人でも通り合せてはといふ懸念《けねん》から路を離れて一二町右手の金時山の方に登つて、枯芒の眞深い中に腰を下した。富士よ、富士よ、御身はその芒の枯穗の間に白く/\清く/\全身を表はして見えてゐて呉れたのである。
乙女峠の富士は普通いふ富士の美しさの、山の半ば以上を仰いでいふのと違つてゐるのを私は感じた。雪を被つた山巓《さんてん》[#ルビの「さんてん」は底本では「さててん」]も
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