樹木とその葉
四邊の山より富士を仰ぐ記
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)駿河《するが》なる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから3字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\さう簡單に
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駿河《するが》なる沼津より見れば富士が嶺の前に垣なせる愛鷹《あしたか》の山
[#ここで字下げ終わり]
東海道線御殿場驛から五六里に亙る裾野を走り下つて三島驛に出る。そして海に近い平地を沼津から原驛へと走る間、汽車の右手の空におほらかにこの愛鷹山が仰がるる。謂《い》はば蒲鉾形《かまぼこがた》の、他奇ない山であるが、その峯の眞上に富士山が窺《のぞ》いてゐる。
いま私の借りて住んでゐる家からは先づ眞正面に愛鷹山が見え、その上に富士が仰がるゝ。富士といふと或る人々からは如何にも月並な、安瀬戸物か團扇《うちは》の繪にしかふさはない山の樣に言はれないでもないが、この沼津に移住して以來、毎日仰いで見てゐると、なか/\さう簡單に言ひのけられない複雜な微妙さをこの山の持つてゐるのを感ぜずにはゐられなくなつてゐる。雲や日光やまたは朝夕四季の影響が實に微妙にこの單純な山の姿に表はれて、刻々と移り變る表情の豐かさは、見てゐて次第にこの山に對する親しさを増してゆくのだ。
一體に流行を忌む心は、もう日本アルプスもいやだし、富士登山も唯だ苦笑にしか値しなかつた。與謝野寛さんだかゞ歌つた「富士が嶺はをみなも登り水無月《みなづき》の氷の上に尿垂るてふ」といふ感がしてならなかつた。それで今まで頑固にもこの名山に登ることをしなかつたが、こちらに來てこの山に親しんで見ると、さうばかりも言へなくなり、この夏は是非二三の友人を誘つて登つてゆき度い希望を抱くに到つてゐる。
閑話休題、朝晩に見る愛鷹を越えての富士の山の眺めは、これは一つ愛鷹のてつぺんに登つて其處から富士に對して立つたならばどんなにか壯觀であらうといふ空想を生むに至つた。ところが其頃私の宅にゐた土地生れの女中は切にこの思ひ立ちを危ぶんで、愛鷹には魔物がゐると昔から言ひなされて、土地の者すらまだ誰一人登つたといふ話を聞かぬ、何も好んでそんな山へ登るにも當るまいと頻りに留めるのだ。妻は無論女中の贊成者であ
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