う居たゝまらなくなつて私の行つた一月ほど前に何處かへ逐電《ちくでん》してしまつたところであつた。そしてその留守宅にはその男の年老いた兩親が殘つてゐた。父親は白い髯《ひげ》など垂らした、品のいい老爺であつた。私が前に言つた青年やその父の老醫師や、東京の或る實業家の持家であるその家を預つて差配をしてゐる年寄の百姓たちと邸の中に入つて行つた時、老爺は庭で草とりをしてゐた。各部屋を見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、此處が湯殿ですと離室に續いた一室の戸を引きあけると、其處で髮を洗つてゐたのが母親であつた。私は見まじきものを見た樣な、厭はしい痛はしい氣がした。その時、私達を案内してゐた差配の百姓、この男ももう相當の爺さんで、小柄の、見るからに險しい顏をした男であつたが、庭でせつせと草を拔いてゐる老爺を呼びかけて、故《ことさ》らに大きな聲で、斯うしてお客樣を案内して來たから、氣の毒だけれど早速この家をあけて貰ひたい、もう斯うなると今度こそは待つてあげるわけにゆかぬから、と宣告した。髯の白い老爺は立ち上つてずつと我等を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、丁寧にお辭儀をした。
『どうも始末にいかねエんですよ、毎日々々追立を喰はしてるんですけど、どうしても動かねエんでね、……然し今度は立退《たちの》くでせうよ、斯うして旦那がたをお連れ申したんだから。』
差配は狡猾らしい笑ひを漏らしながら我等を顧みて斯う言つた。
『だつて行く先が無くちや困るでせうに。』
私は言つた。
『なアに、息子とはちやアんと打合せが出來てるでせうよ、どつちもどつちで、煮ても燒いても食へる奴等ぢやアねエんですから。』
家賃は僅か一ヶ月分を拂つたのみで、その上うまく擔がれて、多少現金をもその男から捲きあげられてゐる話をひどい早口で差配は話して聞せた。
家族を連れて沼津驛に降りたのはその月の十五日であつた。その夜一晩、町はづれの狩野川に沿うた宿屋に泊り、翌朝起きてみるとこまかい雨が降つてゐた。二階から見下す下の通りをば番傘をさした近在の百姓女たちが葱や茄子の野菜の籠を擔いで通つてゐたが、それら眞新しい野菜も雨に濡れてゐた。そして窓から少し顏を出して見ると、今度借りた家のうしろに位置してゐる香貫山といふ小松ばかりの圓つこい岡が同じく微雨の中に眺められた。
『何だかたいへん靜かな生
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