た信州あたりの比ではない。たいていのものをば喰べこなす私も後にはどうしても箸がつけられなくなつた。そして矢張り中で一番うまいのは漬物だといふ事になり、そればかり喰べてゐた。やがて其處を立つて歸る時が來た。土地の青年の、しかも二人までが、見てゐるところ先生はよほど漬物がお好きの樣である、どうかこれをお持ち下さいと云つてかなりの箱と樽とを差出した。眞實嬉しくて厚く禮をいひ、幾度かの汽車の乘換にも極めて丁寧に取り扱つて自宅まで持ち歸つた。そして大自慢で家族たちに勸めたところが、皆、變な顏をしてゐる。そんな筈はないと自分にも口にして見て驚いた。たゞ驚くべき鹹味《からみ》が感ぜらるるのみで、ツイ先日まで味はつてゐた風味はなか/\に出て來ないのである。やがて私は獨りで苦笑した、津輕にゐた時には他の食物に比してこれがうまかつたが、サテ他のものゝ味が出て來るともうこの漬物の權威はなくなつてゐるのであつたのだ。
酒であるが、因果《いんぐわ》と私はこれと離るゝ事が出來ず、既に中毒性の病氣見たいになつてゐるので殆んどもうその質のよしあしなどを言ふ資格はなくなつてゐると言つていゝ、朝先づ一本か二本のそれが濟まなくてはどうしても飯に手がつけられない。晝の辨當を註文する前に一本のそれを用意する事を忘れない。夕方はなほのことである。
それも獨りの時はまだいゝ。久し振の友人などと落合つて飮むとなると殆んど常に度を過して折角の旅の心持を壞す事が屡々《しばしば》である。恨めしい事に思ひながら、なほそれを改め得ないでゐる。いゝ年をしながら、といつも耻しく思ふのであるが、いつかは自づとやめねばならぬ時が來るであらう。
旅は獨りがいゝ。何も右言つた酒の上のことに限らず、何彼につけて獨りがいゝ。深い山などにかかつた時の案内者をすら厭ふ氣持で私は孤獨の旅を好む。
つく/″\寂しく、苦しく、厭はしく思ふ時がある。
何の因果で斯んなところまでてく/\出懸けて來たのだらう、とわれながら恨めしく思はるゝ時がある。
それでゐて矢張り旅は忘れられない。やめられない。これも一つの病氣かも知れない。
私の最も旅を思ふ時季は紅葉がそろ/\散り出す頃である。
私は元來紅葉といふものをさほどに好まない。けれど、それがそろ/\散りそめたころの山や谷の姿は實にいゝ。
谷間あたりに僅かに紅ゐを殘して、次第に峰にかけて枯木の姿のあらはになつてゐる眺めなど、私の最も好むものである。
路にいつぱいに眞新しい落葉が散り敷いてその匂ひすら日ざしの中に立つてゐる。その間から濃紫《こむらさき》の龍膽《りんだう》の花が一もと二もと咲いてゐるなどもよくこの頃の心持を語つてゐる。
木枯の過ぎたあと、空は恐ろしいまでに澄み渡つて、溪にはいちめんに落葉が流れてゐる、あれもいい。ホ、もうこの邊にはこれが來たのか、と思ひながら踏む山路の雪、これも尊い心地のせらるゝものである。枯野のなかを行きながら遠く望む高嶺の雪、これも拜みたい氣持である。
落葉の頃に行き會つて、これはいゝ處だと思はれた處にはまた必ずの樣に若葉の頃に行き度くなる。
これは一つは樹木を愛する私の性癖からかも知れない。
事實、世の中に樹木といふものが無くなつたならば、といふのが仰山《ぎやうさん》すぎるならば、若し其處等の山や谷に森とか林とかいふものが無くなつたならば、恐らく私は旅に出るのをやめるであらう。それもいはゆる植林せられたものには味がない、自然に生《は》えたまゝのとりどりの樹の立ち竝んだ姿がありがたい。
理窟ではない、森が斷ゆれば自づと水が涸《か》るゝであらう。
水の無い自然、想ふだにも耐へ難いことだ。
水はまつたく自然の間に流るゝ血管である。
これあつて初めて自然が活きて來る。山に野に魂が動いて來る。
想へ、水の無い自然の如何ばかり露骨にして荒涼たるものであるかを。
ともすれば荒つぽくならうとする自然を、水は常に柔かくし美しくして居るのである。立ち竝んだ山から山の峯の一つに立つて、遠く眼にも見えず麓を縫うて流れてゐる溪川の音を聞く時に、初めて眼前に立ち聳えて居る巍々《ぎぎ》たる諸山岳に對して言ふ樣なき親しさを覺ゆることは誰しもが經驗してゐる事であらうとおもふ。
私の、谷や川のみなかみを尋ねて歩く癖も、一にこの水を愛する心から出てゐるのである。
今度の旅では千曲川のみなかみを極めて、荒川の上流に出たのであつた。
その分水嶺をなす樣な位置に在る十文字峠といふのは上下七里の難道であつたが、七里の間すべて神代ながらの老樹の森の中をゆくのである。
その大きな官有林に前後何年間かにわたつて行はれた盜伐事件が發覺して、長野埼玉兩縣下からの裁判官警察官林務官といふ樣な人たちがその深い山の中に入り込んでゐた。そしてそれらの人たちのために二度宿屋を追はれたのであつた。
千曲川の上流長さ數里にわたつた寒村を川上《かはかみ》村と云つた。
ずつと以前利根川の上流を尋ねて行つた時、水上《みなかみ》村といふのに泊つたことがある。
村の名にもなか/\しやれたのゝあるのに出會ふ。上州の奧、同じく利根の上流をなす深い溪間の村に小雨《こさめ》村といふのがあつた。恐しい樣な懸崖の下に、家の數二十軒ばかりが一握りにかたまつてゐる村であつた。その次の村、これはそれよりも一二里奧の同じ溪に臨んだ小雨村よりももつと寂しい京塚村といふのであつた。この村をば私は對岸の山の上から見て過ぎたのであつたが、崖の中腹に作られた七八軒の家が悉くがつしりした構へで而かも他に見る樣にきたなつぽくなく、いかにも上品な古びた村に眺められたのであつた。どうしたのか、折々この村をば夢に見ることがある。
荒川の上流と言つたが、二つの溪が落合つて本流のもとをなすのである。その一つの中津川といふものゝ水上に中津川といふ部落があるさうだ。昔徳川幕府の時代、久しい間この部落の存在は世に知られてゐなかつた。よくある話の樣に、折々その溪奧から椀の古びたのなどが流れてくる。箭《や》の折れたのも流れて來た。若しや大阪の殘黨でも隱れてゐるのではないかと土地の代官か何かゞ大勢を引率してその上流を探して行つた。果して思ひもかけぬ山の蔭に四五十人の人が住んでゐた。それといふのでその四五十人を何とかいふ蔓《かづら》で何とかいふ木にくゝしつけてしまつた。そしてよく聞いて見ると大阪ではなくずつと舊く鎌倉の落人であることが解つた。村人はその時の事を恨み、この後この里にその何とか蔓と何の木とはゆめにも生《は》ゆること勿れと念じ、今だに其の木と蔓とはその里に根を絶つてゐるといふ。
傳説は平凡だが、私は十文字峠の尾根づたひのかすかな道を歩きながら七重八重の山の奧の奧にまだまださうした村の在るといふことに少なからぬ興味を感じた。落葉しはてたその方角の遙かの溪間には折から朗かな秋の夕日がさしてゐた。その一個所を指ざして、ソラ、あそこにちよつぴり青いものが見ゆるだらう、あれが中津川の人たちの作つてゐる大根畑だ、と言ひながら信州路から連れて來た私の老案内者はその大きなきたない齒莖をあらはして笑つた。
燒岳を越えて飛騨《ひだ》の國へ降《お》りついたところに中尾村といふ村があつた。十四五軒の家がばらばらに立つてゐるといふ風な村であつたが、その中の三四軒で、男とも女ともつかぬ風態をした人たちが大きな竈に火を焚いてせつせと稗を蒸してゐた。
越後境に近い山の中に在る法師温泉といふへ、上州の沼田町から八九里の道を歩いて登つて行つたことがある。もう日暮時で、人里たえた山腹の道を寒さに慄へながら急いでゐると不意に道上で人の咳《しはぶ》く聲を聞いた。非常に驚いて振仰ぐと、畑ともつかぬ畑で頻りと何やら眞青な葉を摘んでゐる。よく見ればそれは煙草[#「煙草」は底本では「煙葉」]の葉であつた。
下野に近い片品川の上流に沿うた高原を歩いた時、その邊の桑の木は普通の樣に年々その根から刈り取ることをせず、育つがまゝに育たせた老木として置いてある事を知つた。だから桑の畑と云つても實は桑の林と云つた觀があつた。その桑の根がたの土をならしてすべて大豆が作つてあつた。すつかり葉の落ちつくした桑の老木の、多い幹も枝も空洞になつてゐる樣なのゝ連つた下にかゞんでぼつ/\と枯れた大豆を引いてゐる人の姿は、何とも言へぬ寂しい形に眺められた。
今度通つた念場が原野邊山が原から千曲の谷秩父の谷、すべて大根引《だいこんびき》のさかりであつた。枯れつくした落葉松林の中を飽きはてながら歩いてゐると、不意に眞青なものゝ生えてゐる原に出る。見れば大根だ。馬が居り、人が居る。或日立寄つた茶店の老婆たちの話し合つてゐるのを聞けば今年は百貫目十圓の相場で、誰は何百貫賣つたさうだ、何處其處の馬はえらく痩せたが喰はせるものを惜しむからだ、といふ樣なことであつた。永い冬ごもりに人馬とも全くこの大根ばかり喰べてゐるらしい。
都會のことは知らない、土に噛り着いて生きてゐる樣な斯うした田舍で、食ふために人間の働いてゐる姿は、時々私をして涙を覺えしめずにはおかぬことがある。
草鞋の話が飛んだ所へ來た。これでやめる。
底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年4月4日公開
2005年11月9日修正
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