枯木の姿のあらはになつてゐる眺めなど、私の最も好むものである。
路にいつぱいに眞新しい落葉が散り敷いてその匂ひすら日ざしの中に立つてゐる。その間から濃紫《こむらさき》の龍膽《りんだう》の花が一もと二もと咲いてゐるなどもよくこの頃の心持を語つてゐる。
木枯の過ぎたあと、空は恐ろしいまでに澄み渡つて、溪にはいちめんに落葉が流れてゐる、あれもいい。ホ、もうこの邊にはこれが來たのか、と思ひながら踏む山路の雪、これも尊い心地のせらるゝものである。枯野のなかを行きながら遠く望む高嶺の雪、これも拜みたい氣持である。
落葉の頃に行き會つて、これはいゝ處だと思はれた處にはまた必ずの樣に若葉の頃に行き度くなる。
これは一つは樹木を愛する私の性癖からかも知れない。
事實、世の中に樹木といふものが無くなつたならば、といふのが仰山《ぎやうさん》すぎるならば、若し其處等の山や谷に森とか林とかいふものが無くなつたならば、恐らく私は旅に出るのをやめるであらう。それもいはゆる植林せられたものには味がない、自然に生《は》えたまゝのとりどりの樹の立ち竝んだ姿がありがたい。
理窟ではない、森が斷ゆれば自づと水が涸《か》るゝであらう。
水の無い自然、想ふだにも耐へ難いことだ。
水はまつたく自然の間に流るゝ血管である。
これあつて初めて自然が活きて來る。山に野に魂が動いて來る。
想へ、水の無い自然の如何ばかり露骨にして荒涼たるものであるかを。
ともすれば荒つぽくならうとする自然を、水は常に柔かくし美しくして居るのである。立ち竝んだ山から山の峯の一つに立つて、遠く眼にも見えず麓を縫うて流れてゐる溪川の音を聞く時に、初めて眼前に立ち聳えて居る巍々《ぎぎ》たる諸山岳に對して言ふ樣なき親しさを覺ゆることは誰しもが經驗してゐる事であらうとおもふ。
私の、谷や川のみなかみを尋ねて歩く癖も、一にこの水を愛する心から出てゐるのである。
今度の旅では千曲川のみなかみを極めて、荒川の上流に出たのであつた。
その分水嶺をなす樣な位置に在る十文字峠といふのは上下七里の難道であつたが、七里の間すべて神代ながらの老樹の森の中をゆくのである。
その大きな官有林に前後何年間かにわたつて行はれた盜伐事件が發覺して、長野埼玉兩縣下からの裁判官警察官林務官といふ樣な人たちがその深い山の中に入り込んでゐた。そして
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