を漕いで居るのであつた。それのみならず酷《ひど》く子供の看護を五月蠅《うるさ》がつて仕事が出來ずに困りますと言ひきつてゐた。そのくせ仕事と云つては手内職の編物一つもしてゐないのである。その代りまた斯んな風で烈しく子供を叱るといふこともない。と同時に子供もまた少しも母を重んじない、頭から馬鹿にしてかかつて居る。夜でも競うて父親の懷《ふとこ》ろに眠らうと力めて居るといふ有樣、それが實に今年八歳と十歳になる女の子の行爲である。頑是のない子供心にも尚ほ且つこの母の他と異つて居る性質を何となく飽き足らず忌み嫌ふて居るのであるかと思ふと、そぞろにうら寂しい感に撲たれざるを得ないのである。
 それかあらぬか兩人《ふたり》の娘の性質も何となく一種|異《ちが》つた傾向を帶びて行きつつあるかの觀がある。娘共の懷しがつて居る父親といふのも曾ては獄窓の臭い飯をも食つて來たとかいふ程で、根からの惡人ではなさ相だが何となく陰險らしい大酒家、家に居るのは稀なほど外出がちで、いつも凄いやうな眼光《めつき》で家内中を睨《ね》め※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して居る。その胸に包まれたものであつて見れば子に對する愛情といふのも略《ほ》ぼ推せらるるのである。それに子に取つては先づ第一に親しかるべき母親は以上のやうな有樣、萬事母親讓りに出來て居る姉娘の虚心《うつかり》したのは虚心《うつかり》したままに拗《ねぢ》けて行き、それとはまた打つて變つた癇癪持の負嫌ひの意地惡な妹娘は今でさへ見てゐて心を寒うするやうな行爲を年齡《とし》と共に漸々《だん/\》積み重ねて行きつつあるのである。で、從つて近所の娘連中からは遠ざけられ家に入れば母親は斯ういふ状態、自づと彼等の足は歩一歩と暗黒な沙漠の中に進み入らざるを得ないのである。
 露ほどの愛情を有《も》たぬ女性《をんな》の生涯、その女性を中心とした一家の運命、見る聞くに如何ばかり吾等若い者の胸を凍らしめて居るであらう。
 然ればと云つて彼女《かれ》に常識の缺けて居る所でもあるかといふと、それは全然ちがひで、物ごとのよく解りのいい立派な頭を有つて居るのだ。
 友と自分とは更にいろ/\と細君の蔭口をきいてゐた。少しも料理法を知らぬといふこと、(これも實際の事で、八百屋に現はれるその時々の珍しい野菜にさへ氣附かぬ風である。自分等の豚肉などと共に三つ葉とか春菊とかを買つて來ると、初めてそれに氣がついたやうに、それからはまた幾久しく一本調子にその一種の野菜が膳に上る。それも時に料理法でも變へるなどといふことは決してないのである。)食器類その他の不潔だといふこと、何だかだと新しくもないことを言ひ合つてゐたが、それにも倦んで、やがては兩人《ふたり》とも默り込んでしまつた。子供の高い聲と細君の例の調子の笑ひ聲とが、また耳に入つて來た。
「あれを聞くと、僕は一種言ひ難い冷氣を感ずる。」
 と、突然友は自分の方に寢返りして言つた。丁度自分もそれを感じてゐたところであつたので、無言に點頭《うなづ》いた。
 斯くするうち漸く階子段の音がして、細君は鐵瓶を持つて二階に昇つて來た。そしていつものやうに無言に其處にそれを置いて降りて行くだらうと思つて居ると、火鉢の側に一寸膝を下したまま、襷《たすき》に手をかけながら、いかにも珍奇な事實を發見したといふ風に微笑を含んで、
「不思議なこともあるものですわねえ。」
 と、さも不思議だといふ風に兩人《ふたり》をゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]と見比べる。兩人とも細君の顏を見てそして次の句を待つてゐたが、容易に出ないので、待ちかねて友は訊いた。
「如何かしたのですか。」
「先日《こなひだ》、妾《わたし》は夢を見ましたがね、郷里《くに》で親類中の者が集つて何かして居るところを見ましたがね、何をして居るのやら薩張り解らなかつたのでしたがね……」
 と、一寸句を切つて
「そしたら先刻《さつき》郷里《くに》の弟から葉書を寄越しましたがね、父親《ちち》が死んだのですつて。」
「エ、お父樣が、誰方《どなた》の?」
「妾《わたし》の父親《ちち》ですがね、十日の夕方に死んだ相ですよ……。それも去年|妾《わたし》共は東京《こちら》に來た時一度知らしたままでまだ郷里《くに》の方にはこちらに轉居したことを知らしてやらなかつたものですから、以前の所あてに弟が葉書を寄越したものと見えて附箋附きで先刻《さつき》それが屆きました。」
「貴女《あなた》のお父樣ですか?」
 友は自己の耳を疑ふやうに眼《め》を眞丸《まんまる》にして訊き返して居る。
「エヽ。」
 と、細君は、まだ何か言ふだらうかと云ふ風に友を見詰めて居る。
「さうですか、それはどうも飛《と》んでもない事でしたね、嘸《さ》ぞ……」
 と自分は起き直つて手短かに弔詞《くやみ》を述べた。
 が、斯ういふ具合に述べ立てらるると、世に一人の父親が死んだといふ大きな事實はどうしても頭の中に明らかに映つて來ないので、自然形式的の挨拶しか出て來ない。それでも、其場のつくろひに、まだそれほどのお年でもなかつたでせうに、などと言ふと、
「エ、今年で五十七か八か九かでしたよ。イエもう妾《わたし》は去年家を出る時にお別れのつもりで居ましたから、どうせ斷念《あきら》めてはゐました。」
 と、例の悟つた風をわざ/\しいやうに現して見せる。いよ/\こちらでも愁傷げに裝ふことすら出來にくい。友はまた驚き切つたといふ風に一語をも發せずに居る。微かな風が窓から流れてランプの白い灯《ひ》がこころもち動いて居る。黄昏《たそがれ》の靜けさはそぞろに室に充ちて居る。
「それでも……さうですな、さう言へばさうですけれど、……阿父《おとう》さんの方で會ひたかつたでせう。」
「それはね、少しは何とか思つたでせうけれど、……思つたところで仕樣のないことなのですからねえ。」
 と、また微笑《ほほゑ》まうとする。
「阿母さんはまだお達者なのですか。」
 自分は今度は他のことを訊いてみた。
「エ、彼女《あれ》こそ病身なんですが、まだ何とも音信《たより》がありません。」
「お寂しいでせうな、その阿母樣が。」
 突然友が口を入れた。
「エ、それはね、暫くは淋しうございませうよ。」
「貴女《あなた》も寂しうございませう。」
 にや/\しながら彼《かれ》は自分の方を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゆるやかに斯う言つた。でも彼女《かれ》は頗る平氣で、
「エ、でもね、どうせ女は家を出る時が別離《わかれ》だと言ひますから……」
「で、お歸國《かへり》にでもなりますか、貴女《あなた》は?」
 自分は見かねてまた彼女《かれ》の話の腰を折つた。
「アノ良人《うち》では歸れと言ひますけれど、歸つたところでね……それに十日に死んだとしますと今日はもう十四日ですから……今から歸つたところで仕樣もありませんし……」
「お墓があるではありませんか。それにその病身の阿母さんも待つておゐでではありませんか。」
 耐《たま》りかねたといふ樣子で友は詰《なぢ》るやうに言つた。
「さうですね、それはさうですけれど……」
 と、苦もなく言つて、茫然《ぼんやり》窓越しに向うの空を眺めて居る。暮れの遲い空には尚ほ一抹の微光が一片二片のありとも見えぬ薄雲のなかに美しう宿つて居る。この女はいま心の中で父親の死んだといふことよりも、夢の合つたのを珍しがつて居るのかも知れない。
 階下《した》ではまだ子供が騷いで居る。そして姉の方が妹から追はれたと見えて、きやつ/\言ひ乍ら母を呼んで階子段《はしごだん》を逃げ登つて來ようとする。
「來るでない!」
 と言ひ乍ら細君は立つて、子供と共に下に降りて行つた。
 あとで兩人《ふたり》はやや暫く無言に眼を見合せてゐた。自分は微笑んで、友はさも情無《なさけな》いといふ風で。
「如何だ、實にどうも!」と友。
「ウフ! 流石に驚いたね!」と自分。
 友はいま細君の降りて行つた階子段の方を見送つてゐたが、
「あれでも矢張り生きて居る……」
 と、獨言《ひとりご》つやうに言つた。
 自分もその薄暗い階子段を眺めてゐて、何となく眼のさきの暗くなるやうな氣持になつて來た。
 と、友は
「どうしても普通《なみ》の人間では無い。不具《かたわ》では……白痴《ばか》では無論ないけれども確に普通《なみ》ではない。あれで人間としての價値があるだらうか。」
「價値?」
「價値といふと可笑しいが、意味さ、人間として生存する價値が、意味があるだらうか。」
「サア……然し」
 と言ひかくると、自身にも解らぬ一種言ひがたい冷たい悲哀の念が霧のやうに胸の底からこみ上がつて來た。
「然し、然し、あれでも子を産んだからな、しかも二個《ふたつ》!」
 と、口早やに言ひ棄てて埓《らち》もなくウハヽヽヽヽと笑ひ倒れた。
 倒れると窓越しの大空が廣々と眺めらるる。今は早や凝つた形の雲とては見わけもつかず、一樣に露けく潤《うる》んだ皐月《さつき》の空の朧ろの果てが、言ふやうもなく可懷《なつか》しい。次いでやや暫くの間、死んだやうな沈默がこの室内に續いてゐた。
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附記、この「一家」の一篇は次號を以て完了すべし。然しただ本號のこの一章のみを以て獨立せるものと見做さるるも強ちに差支へなし。(作者)
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底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「東亞の光」
   1907(明治40)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
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