。出來ないものは幾ら何と言つても出來ないんだからつて具合でな。全くどうも洒々《しあ/\》たるもんだ。」
「大悟徹底といふわけなんだらう。」
「さうかも知れない、それでなくてどうして毎日々々のあの債鬼に耐へられるもんか。然し洒々《しあ/\》と云つても何も惡氣のある洒々《しあ/\》ではないのだよ。だからあの亭主のやうにうまく對手を丸めて歸すとか何とかいふ手段をも一つも執ることが出來ないのだね。見給へ、細君一人の時に取りに來た奴なら何時でもあんな大聲を出すやうになる……」
 と言つて、また暫くして、
「いや、それが出來ないのではなからう、爲《せ》んのだらう。負債も平氣、催促も平氣、嘲罵も近隣の評判も全然《まつたく》平氣なんだからな。少しも氣にかからんのだからな。」
「もうあれが習慣になつたのかも知れない。」
「習慣――幾らかそれもあるだらう。が、此家《ここ》が斯んなに窮してるのもほん[#「ほん」に傍点]の昨今のことだといふから、郷里に居た昨年頃までは立派に暮して來たんだらうぢやないか。してみるとさう早くあんなに慣れ切つて仕舞ふわけもない。」
 と今は湯の事などは少しも頭にないらしく、いつしか可笑しい位ゐ熱心になつて言つて居る。自分は微笑みながら手近の辭書を枕にしてこの若い友の言ふのを聞いて居る。西の窓を通して大きな柏の木の若葉が風にも搖れず靜まり返つて居る。室にはまだ微光が漂つて居る。
「如何しても天性なんだよ。催促の一事に限らず萬事が君、ああいふ風ぢやないか。僕はいつも他事《よそごと》ながら癪《しやく》にさはるやうに感ずるのだが、そら君、此家《ここ》の夕食の膳立を知つてるだらう。あの爺《ぢい》さんばかりはこの貧乏のくせに毎晩四合の酒を缺かさずに、肴の刺身か豚の鍋でも料理《こしら》へてゐないことはない。それに君|如何《どう》だ、細君は殆んど僕等の喰ひ餘《あま》しの胡蘿蔔《にんじん》牛蒡《ごぼう》にもありつかずに平素《しよつちう》漬物ばかりを噛《かぢ》つてる、一片《ひときれ》だつて亭主の分前《わけまへ》に預つたことはないよ。」
 自分は思はず失笑《ふきだ》した。
「イヤ事實《まつたく》だよ。それも君、全然《まるつきり》彼女《かれ》は平氣なんだから驚くぢやないか。幾ら士族の家だつたからつて、ああまで專制政治を振り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]されちや叶はん。イヤ、今言つたのは極《ご》く些細の例を取つたのだが、萬事がさうだ。どんな事でも皆|失策《おちど》といつたら細君が背負ふんだぜ。そして愚にもつかぬ事を取つ捉へてあの爺さんが無茶苦茶に呶鳴り立てて終《つひ》には打抛《ぶんなぐ》る。然るに矢張り彼女《かれ》は大平氣さ。何日《いつ》ぞやは障子を開けておいたのが惡いとかいつて、突然手近にあつた子供の算盤《そろばん》で細君の横面《よこつら》を思ひきり抛《なぐ》つた。細君の顏はみる/\腫れ上つた、眼にも血が浸《にじ》んで來た。僕はそれを見て可哀相で耐《たま》らんので、そのあとで心を籠めて慰めようと、一二言言ひかくると、彼女《かれ》は曰くサ、否《いえ》ネ、向うが鐵鎚《かなづち》で此方も鐵鎚なら火も出ませうけれど、此方は眞綿なんですからね、とその腫れた面を平氣で振り立てて、誰からか教《をそ》はつて來たらしい文句を飽くまでも悟り濟ましたやうに得意然として言つてるぢやないか。僕は一言も返事することが出來なかつた。」
 不圖《ふと》したことから話はいつもよく出る細君の性格研究に移つてしまつた。自分も常に見聞してゐる事實ではあるし、つい惹きこまれて身を入れて聽いて居ると、不意に階下《した》で子供の笑ひ聲が聞えた。續いて現に話の題目に上つて居る細君の笑ふのもきこえる。いつも乍らの力のない面白くも無さ相な調子である。細君といふのは三十五六歳の顏容子《かほかたち》も先づ人並の方であらうが、至つて表情に乏しい、乏しいといふより殆んど零《ぜろ》に近いほど虚心《うつかり》した風をして居るのである。亭主はそれより十五六歳も年長で兩人《ふたり》の中に女の子供が兩人《ふたり》ある。昨年の秋郷里の名古屋から上京して來たとかで亭主は目下某官署の腰辨を勤めて居るのである。
 いま友人の語つて居るやうに、此家《ここ》の細君は確かに異《ちが》つた性質を有《も》つて居る。萬事が消極的で、自ら進んでどう爲ようといふやうな事は假初《かりそめ》にもあつた例《ためし》がない。いや、消極的といふと大いに語弊があるので、今より以前の女大學流で育て上げられた日本の女性は大方が消極的であるのであるが、此家《ここ》のはそれとも違ふ。その一般の婦人といふのは幼い時の教育や永らくの習慣やらで行爲の上には萬事控へ目であつても、負けず嫌ひの虚榮心に富んだ感情的のものであるだけ内心では種々《いろ/\》と思
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