たちが朝の仕事に就く前に一人々々此處にこの香を捧げて行つたものなのである。一日として斯うない事はないのださうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衞門を思ひ、茂左衞門に對する百姓たちの心を思ひ瞼の熱くなるのを感じた。
 堂のうしろの落葉を敷いて暫く休んだ。傍らに同じく腰をおろしてゐた年若い友は不圖《ふと》何か思か出した樣に立ち上つたが、やがて私をも立ち上らせて對岸の岡つゞきになつてゐる村落を指ざしながら、
「ソレ、あそこに日の當つてゐる村がありませう。あの村の中ほどにやゝ大きな藁葺の屋根が見えませう、あれが高橋お傳の生れた家です。」
 これはまた意外であつた。聞けば同君の祖母はお傳の遊び友達であつたといふ。
「今日これから行く途中に鹽原太助の生れた家も、墓もありますよ。」
 と、なほ笑ひながら彼は附け加へた。
 月夜野村は村とは云へ、古めかしい宿場の形をなしてゐた。昔は此處が赤谷川《あかたにがは》流域の主都であつたものであらう。宿を通り拔けると道は赤谷川に沿うた。
 この邊、赤谷川の眺めは非常によかつた。十間から二三十間に及ぶ高さの岸が、楯を並べた樣に並び立つた上に、かなり老木の赤
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