雪が斑らになつてゐる遠い麓に、谷でも流れてゐるか、丁度模型地圖を見るとおなじく幾つとない細長い窪みが、絲屑を散らした樣にこんがらがつてゐる中の一個所にそんな温泉があると聞いて私の好奇心はひどく動いた。第一、そんなところに人が住んで、そんな湯に浸つてゐるといふ事が不思議に思はれたほど、その時其處を遙かな世離れた處に眺めたものであつたのだ。それがいま思ひがけなく眼の前の棒杭に「左花敷温泉道、是より二里半」と認めてあるのである。
「どうだね、君行つて見ようよ、二度とこの道を通りもすまいし、……その不思議な温泉をも見ずにしまふ事になるぢやアないか。」
 その話に私と同じく心を動かしたらしい彼は、一も二もなく私のこの提議に應じた。そして少し後戻つて、再びよく道標の文字を調べながら文字のさし示す方角へ曲つて行つた。
 今までよりは嶮しい野路の登りとなつてゐた。立枯の楢がつゞき、をり/\栗の木も混つて毬と共に笑みわれたその實を根がたに落してゐた。
[#ここから2字下げ]
夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の實
音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の實の色のよろしさ
柴栗の柴の枯葉のなかばだに如《し》かぬちひさき栗の味よさ
おのづから干て搗栗《かちぐり》となりてをる野の落栗の味のよろしさ
この枯野|猪《しし》も出でぬか猿もゐぬか栗美しう落ちたまりたり
かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
[#ここで字下げ終わり]
 芒の中の嶮しい坂路を登りつくすと一つの峠に出た。一歩其處を越ゆると片側はうす暗い森林となつてゐた。そしてそれが一面の紅葉の渦を卷いてゐるのであつた。北側の、日のさゝぬ其處の紅葉は見るからに寒々として、濡れてもゐるかと思はるゝ色深いものであつた。然し、途中でやゝこの思ひ立ちの後悔せらるゝほど路は遠かつた。一つの溪流に沿うて峽間を降り、やがてまた大きな谷について凹凸烈しい山路を登つて行つた。十戸二十戸の村を二つ過ぎた。引沼村といふのには小學校があり、山蔭のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄つた先生が二十人ほどの生徒に體操を教へてゐた。
[#ここから2字下げ]
先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の學校に
ひたひたと土踏み鳴らし眞裸足に先生は教ふその體操を
先生の頭の禿もたふとけれ此處に死なむと教ふるならめ
[#ここで字下げ終わり]
 遙か眞下に白々とした谷の瀬々を見下しながらなほ急いでゐると、漸くそれらしい二三軒の家を谷の向岸に見出だした。こごしい岩山の根に貼り着けられた樣に小さな家が竝んでゐるのである。
 崖を降り橋を渡り一軒の湯宿に入つて先づ湯を訊くと、庭さきを流れてゐる溪流の川下の方を指ざしながら、川向うの山の蔭に在るといふ。不思議に思ひながら借下駄を提げて一二丁ほど行つて見ると、其處には今まで我等の見下して來た谷とはまた異つた一つの谷が、折り疊んだ樣な岩山の裂け目から流れ出して來てゐるのであつた。ひた/\と瀬につきさうな危い板橋を渡つてみると、なるほど其處の切りそいだ樣な崖の根に湯が湛へてゐた。相竝んで二個所に湧いてゐる。一つには茅葺の屋根があり、一方には何も無い。
 相顧みて苦笑しながら二人は屋根のない方へ寄つて手を浸してみると恰好な温度である。もう日も※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《かげ》つた山蔭の溪ばたの風を恐れながらも着物を脱いで石の上に置き、ひつそりと清らかなその湯の中へうち浸つた。一寸立つて手を延ばせば溪の瀬に指が屆くのである。
「何だか溪まで温かさうに見えますね。」と年若い友は言ひながら手をさし延ばしたが、慌てゝ引つ込めて「氷の樣だ。」と言つて笑つた。
 溪向うもそゝり立つた岩の崖、うしろを仰げば更に膽も冷ゆべき斷崖がのしかゝつてゐる。崖から眞横にいろ/\な灌木が枝を張つて生ひ出で、大方散りつくした紅葉がなほ僅かにその小枝に名殘をとゞめてゐる。それが一ひら二ひらと絶え間まなく我等の上に散つて來る。見れば其處に一二羽の樫鳥が遊んでゐるのであつた。
[#ここから2字下げ]
眞裸體になるとはしつつ覺束な此處の温泉《いでゆ》に屋根の無ければ
折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り來《く》いで湯のなかに
樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り來わが見てあれば
二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に
[#ここで地下げ終わり]
 夜に入ると思ひかけぬ烈しい木枯が吹き立つた。背戸の山木の騷ぐ音、雨戸のはためき、庭さきの瀬々のひゞき、枕もとに吊られた洋燈の燈影もたえずまたゝいて、眠り難い一夜であつた。

 十月二十日
 未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其處を立ち出でた。驚いたのはその、足もとに斑らに雪の落ちてゐること
前へ 次へ
全18ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
若山 牧水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング