答へる。答へるといふより唸るのである。三十秒ごとにこれを繰返し、かつきり三分間にして號令のもとに一齊に湯から出るのである。その三分間は、僅かに口にその返事を稱ふるほか、手足一つ動かす事を禁じてある。動かせばその波動から熱湯が近所の人の皮膚を刺すがためであるといふ。
 この時間湯に入ること二三日にして腋の下や股のあたりの皮膚が爛れて來る。軈ては歩行も、ひどくなると大小便の自由すら利かぬに到る。それに耐へて入浴を續くること約三週間で次第にその爛れが乾き始め、ほゞ二週間で全治する。その後の身心の快さは、殆んど口にする事の出來ぬほどのものであるさうだ。さう型通りにゆくわけのものではあるまいが、效能の強いのは事實であらう。笛の音の鳴り饗くのを待つて各自宿屋から(宿屋には穩かな内湯がある)時間湯へ集る。杖に縋り、他に負はれて來るのもある。そして湯を揉み、唄をうたひ、煮ゆるごとき湯の中に浸つて、やがて全身を脱脂綿に包んで宿に歸つて行く。これを繰返すこと凡そ五十日間、斯うした苦行が容易な覺悟で出來るものでない。
 草津にこの時間湯といふのが六箇所に在り、日に四囘の時間をきめて、笛を吹く。それにつれて湯揉みの音が起り、唄が聞えて來る。
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たぎり沸《わ》くいで湯のたぎりしづめむと病人《やまうど》つどひ揉めりその湯を
湯を揉むとうたへる唄は病人《やまうど》がいのちをかけしひとすぢの唄
上野《かうづけ》の草津に來り誰も聞く湯揉の唄を聞けばかなしも
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 十月十九日
 降れば馬を雇つて澤渡《さわたり》温泉《おんせん》まで行かうと決めてゐた。起きて見れば案外な上天氣である。大喜びで草鞋を穿く。
 六里ヶ原と呼ばれてゐる淺間火山の大きな裾野に相對して、白根火山の裾野が南面して起つて居る。これは六里ヶ原ほど廣くないだけに傾斜はそれより急である。その嶮しく起つて來た高原の中腹の一寸した窪みに草津温泉はあるのである。で、宿から出ると直ぐ坂道にかゝり、五六丁もとろ/\と登つた所が白根火山の裾野の引く傾斜の一點に當るのである。其處の眺めは誠に大きい。
 正面に淺間山が方六里に渡るといふ裾野を前にその全體を露はして聳えてゐる。聳ゆるといふよりいかにもおつとりと双方に大きな尾を引いて靜かに鎭座してゐるのである。朝あがりのさやかな空を背景に、その頂上からは純白な煙が微かに立つてやがて湯氣の樣に消えてゐる。空といひ煙といひ、山といひ野原といひ、すべてが濡れた樣に靜かで鮮かであつた。濕つた地《つち》をぴたぴたと踏みながら我等二人は、いま漸く旅の第一歩を踏み出す心躍りを感じたのである。地圖を見ると丁度その地點が一二〇八|米突《メートル》の高さだと記してあつた。
 とり/″\に紅葉した雜木林の山を一里半ほども降つて來ると急に嶮しい坂に出會つた。見下す坂下には大きな谷が流れ、その對岸に同じ樣に切り立つた崖の中ほどには家の數十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えてゐた。九十九折《つづらをり》になつたその急坂を小走りに走り降ると、坂の根にも同じ樣な村があり、普通の百姓家と違はない小學校なども建つてゐた。對岸の村は生須村、學校のある方は小雨《こさめ》村と云ふのであつた。
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九十九折《つづらをり》けはしき坂を降り來れば橋ありてかかる峽の深みに
おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨《こさめ》の里といふにぞありける
蠶飼《こがひ》せし家にかあらむを壁を拔きて學校となしつ物教へをり
學校にもの讀める聲のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて
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 生須村を過ぎると路はまた單調な雜木林の中に入つた。今までは下りであつたが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登つてゆくのである。日は朗らかに南から射して、路に堆い落葉はからからに乾いてゐる。音を立てゝ踏んでゆく下からは色美しい栗の實が幾つとなく露はれて來た。多くは今年葉である眞新しい落葉も日ざしの色を湛へ匂を含んでとり/″\に美しく散り敷いてゐる。をり/\その中に龍膽《りんだう》の花が咲いてゐた。
 流石に廣かつた林も次第に淺く、やがて、立枯の木の白々と立つ廣やかな野が見えて來た。林から野原へ移らうとする處であつた。我等は双方からおほどかになだれて來た山あひに流るゝ小さな溪端を歩いてゐた。そして溪の上にさし出でて、眼覺むるばかりに紅葉した楓の木を見出した。
 我等は今朝草津を立つときからずつと續いて紅葉のなかをくゞつて來たのである。楓を初め山の雜木は悉く紅葉してゐた。恰も昨日今日がその眞盛りであるらしく見受けられた。けれどいま眼の前に見出でて立ち留つて思はずも聲を擧げて眺めた紅葉の色はまた別であつた。楓とは思はれぬ大きな古株から六七本に分れた幹が一齊に溪に傾いて伸びて
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