も、やっと覚えのある大広間《ホール》に出ることができた。朝まだ早かったせいか、入場者は多くない。
帆村は遊戯室の方に上る階段の入口を探しあてた。彼はすこし胸をワクワクさせながらその狭い階段を登っていった。
おお有った有った。思いの外なんだか狭くなったような感じであるが、見廻したところ、彼の記憶に残っている世界遊覧実体鏡、一銭活動、魔法の鏡、三世界不思議鏡、電気屋敷など、すべてそのままであった。
「うむ、アルプスの小屋に住んでいる貧乏《プーア》サンタクロス爺さんの一家は機嫌がいいかしら」
と、帆村は数多い懐しい実体鏡のなかを、あれやこれやと探して歩いた。貧乏サンタクロスの一家というのは、アルプス小屋に住んでいる山籠《やまごも》りの一家のことで、小さな小屋の中にサンタクロスに似た髯を持った老人を囲んで、男女、八人の家族が思い思いに針仕事をしたり薪を割ったり、鏡の手入れをしたり、子供は木馬に乗って遊んでいるという一家団欒の写真であって、サンタ爺さんひとりは酒のコップを持ってニコニコ笑っているのであった。
その実体鏡でみると、この狭い家の中の遠近がハッキり見え、そして多勢の身体も実体的に凹凸《おうとつ》がついていて、本当の人間がチャンとそこに見えるのであった。いつまでも見ていると、本当にアルプスへ登って、この小屋の中を覗《のぞ》きこんでいるような気がしてきて、淡い望郷病が起ってきたり、それから小屋の家族たちの眼がこっちをジロリと睨んでいるのが、急になんともいえなく恐ろしくなったりして、堪らなくなって眼鏡から眼を離して周囲を見廻す。すると一瞬間のうちに、アルプスを離れて、身はわが日本の宝塚新温泉のなかにいることを発見する――という淡《あわ》い戦慄《せんりつ》をたいへん愛した帆村荘六だった。彼は十何年ぶりで、そのアルプス小屋の一家が相変らず楽しそうに暮しているのを発見して嬉しかった。サンタ爺さんの手にあるコップには相変らず酒が尽きないようであったし、彼の長男らしい眼のギョロリとした男は、一挺の猟銃をまだ磨きあげていなかった。
帆村は子供の頃の心に帰って、それからそれへとカラクリを見て廻った。
そのうちに彼は甚《はなは》だ奇抜な一銭活動を発見した。これは「人造犬《じんぞうけん》」という表題であったが、イタリヤらしい市街をしきりに猛犬が暴れまわり、市民がこれを追いかけるという写真であった。その猛犬を追跡自動車が追うと、自動車が反《かえ》ってガタンと街路にひっくりかえる。ピストルを打てば、弾丸が撃った者の方へ跳ねかえってくる。袋小路へ大勢の市民が追いつめて、いよいよ捕えるかしらと思っていると、ああら不思議、猛犬の四肢が梯子《はしご》のようにスルスルと伸び、猛犬の背がビルディングの五階に届く。そして寝坊のお内儀らしい女が、窓を明ける拍子に猛犬は女を押したおしてそこから窓の中へ飛びこむ。最後にこの「人造犬」の発明者が現われて犬の尻尾を棍棒でぶんなぐると、犬を動かしていた電気のスイッチが開き、猛犬は仰向けにゴロンと引繰りかえり、身体のなかからゼンマイや電池や電線がポンポン飛び出す――という大活劇であった。
帆村はその活動写真がたいへん気に入って、二度も三度も一銭銅貨を抛《な》げて、同じものを繰返し見物した。この「人造犬」というのは、彼が子供のときに見た記憶がなかった。その後、新しく輸入されて陳列されたものであろうが、実に面白い。
帆村は続いて、他の一銭活動写真の方に移っていった。
帆村が何台目かの一銭活動を覗きこんでいるときのことだった。すこし離れたところに於て、なにかガタンガタンという騒々しい音をだした者がある。折角の楽しい気分を削ぐ憎い奴だと思って、帆村は活動函から顔をあげてその方を見た。
音を立てているのは、腕に青い遊戯室係りの巾《きれ》を捲いた男だった。彼は活動函をしきりに解体しているのであった。その傍には、それを熱心に見守っている二人の男女があった。
女の方は洋髪に結った年の頃二十三、四歳の丸顔の和装をした美人だった。その顔立は、たしかに何処かで最近見たような気がするのであった。男の方は――と、帆村は眼をそっちへ移した瞬間、彼はもうすこしで声を出すところだった。それは余人ではなく、玉屋総一郎の殺人事件のあった夜、玉屋邸に於てしきりに活躍していた医師池谷与之助に外ならなかった。
池谷医師といえば、帆村が玉屋邸に赴く前に、正木署長から、邸内に現われた怪しき男として電話によって逸早く報道された人物だった。
しかし彼の住居は、この土地宝塚であるということだったから、今この新温泉に居たとて別に不思議はない筈だった。
でも彼は、こんな室内遊戯室に、何の用があって訪れたのだろうか。
尾行
帆村が数間先に立っていようとは、池谷医師も気がつかなかったらしい。
遊戯室係りの男は、いよいよ喧《やかま》しい音を立てて、一銭活動の函を取外していった。そしてやがて函の中から取出したのは、この一銭活動フィルムであった。
池谷医師はそのフィルムを受取って大きく肯くと、それを手帛《ハンケチ》に包んでポケットのなかに収めて、そして連れの女を促して、足早に遊戯室を出ていった。
(尾行したものか、どうだろうか?)
と、そのとき帆村は逡《ためら》った。
いつもの彼だったら、躊躇《ちゅうちょ》するところなく二人の男女の後を追ったことだろう。でもそのときは、恐ろしい惨劇事件に酷使した頭脳《あたま》を休めるために無理に余裕をこしらえて、この宝塚へ遊びにきていたのだった。そして折角楽しんでいたところへ、妙なことをやっている池谷医師を見たからといって、すぐさま探偵に還らなければならないことはないだろう。それはあまり商売根性が多すぎるというものだ。せめて今日ばかりは「蠅男」事件や探偵業のことは忘れて暮らしたい――と一応は自分の心に云いきかせたけれど、どうも気に入らぬのは池谷医師の行動だった。一銭活動のフィルムを持っていって、どうする気であろう。そして一体彼はどのようなフィルムを外して持っていったのだろう。
「うむ。そうだ。せめて池谷医師が外していったフィルムは何《ど》んなものだったか、それを確かめるだけなら、なにも悪かないだろう」
帆村は自分の心にそんな風に言訳をして、立っていたところを離れた。
近づいてみると、係りの男は活動函を元のように締めて立ち上ったところだった。彼は函の前に廻って覗き眼鏡のすぐ傍に挿しこんであった白い細長い紙を外しに懸った。それは函の中の一銭活動の題名を書いてある紙札であった。
「おやッ。――」
帆村は、なんとはなしにギョッとした。係りの男の外した紙札には、明らかに「人造犬《じんぞうけん》」の三文字が認められてあったではないか。あれほど先刻帆村が面白く見物した「人造犬」の活動写真だったのである。
係りの男は、帆村の愕きに頓着なく、そのあとへ「空中戦」と認めた紙札を挿しかえた。
帆村はもう辛抱することができなかった。
「ねえ、おっさん。さっき入っていた『人造犬』の活動は、警察から公開禁止の命令でも出たのかネ」
遉《さすが》に帆村は、聞きたいことを上手に偽装《カムフラージュ》して訊いた。
「イヤ、そやないねン。あの『人造犬』のフィルムを売ったんや」
「へえ、売った。――この遊戯室の活動のフィルムは誰にでもすぐ売るのかネ」
「すぐは売られへん。本社へ行って、あの人のように掛合って来てくれんと、あかんがな」
「そうかい。――で、あの『人造犬』のフィルムは、もう外《ほか》に持ち合わせがないのかネ」
「うわーッ、今日はけったいな日や。今日にかぎって、この一銭活動のフィルムが、なんでそないに希望者が多いのやろう。――もう本社にも有らしまへんやろ。本社に有るのんなら、あの人も本社で買うて帰りよるがな」
係りの男はぶっきら棒な口調で、これを云った。
帆村は、あのフィルムが一本しかないと聞いて、急に池谷医師の後を追いかける気になった。訳はよく分らんが、とにかくどうも怪しい行動である。もしあれを見ているのが自分でなくて正木署長だったら、池谷医師はその場に取り押さえられたことだろう。
帆村荘六は、もう骨休みも商売根性を批判することもなかった。彼は平常と変らぬ獲物を追う探偵になりきっていた。
新温泉の出口へ飛んでいった彼は、下足番《げそくばん》に、今これこれの二人連れが帰らなかったかと聞いた。下足番は今ちょっと先に出やはりましたと応えたので、帆村は急いで温泉宿の下駄を揃えさせると、表へ飛びだした。
帆村はなるべく目立たないように、新温泉の前をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりした。そして狙う二人の男女が、新温泉の前をずっと奥の方へ歩いてゆくのを遂に発見した。彼は鼻をクスリと云わせて、旅館のどてら[#「どてら」に傍点]に懐手《ふところで》といういでたちで、静かに追跡を始めたのだった。
二人の男女はクネクネした道をズンズン歩き続けた。帆村は巧みに二人の姿を見失わないで、後からブラリブラリとついていった。その間にも彼は、池谷医師の連れの美人が誰の顔に似ているかを思い出そうと努めた。ところが、殆んど分っているようでいて、なかなか思い出せないのであった。丸顔の女を、何処で見たのだろう。前に歩いていた二人の男女の姿が、急に道の上から消えた。
「呀《あ》ッ、どこへ行ったろう」
帆村は先に見える辻までドンドン駈けだしてみたけれど、どの方角にも二人の姿はなかった。最後のところまで行ってとうとう巧く撒かれてしまったか、残念なと思いながら引返してくる帆村の目に、傍の大きな文化住宅の門標が映った。瀟洒《しょうしゃ》な建物には似合わぬ鉄門に、掲げてある小さい門標には「池谷控家」の四字が青銅の浮き彫りに刻みつけてあった。
「うむ、ここへ這入ったんだな」帆村はホッと吐息をついた。これは控家とあるからには、池谷医師の医院は別のところにあるのだろう。これは住居らしいが、なかなか豪勢なものであった。若い女も此処に入ったとすると、あれは池谷医師の妻君だったかなと思った。
こうして池谷医師の行方はつきとめたけれども、この儘《まま》で入ると、鳥渡《ちょっと》具合がわるい。すこし計略を考えた上でないと、かえって物事が拙《まず》くなると思った帆村は、服でも着かえなおしてくるつもりで、門前を去って、もと来た道の方へ引きかえしていった。
半丁ほど行ったところで、彼は向うから一人の麗人が静かに歩いてくるのに逢った。
「おお、これは愕いた。糸子さんじゃありませんか」
その麗人は、惨劇の玉屋総一郎の遺児糸子であった。彼女は声をかけた主が帆村だと知ると、面窶《おもやつ》れした頬に微笑を浮べて近よってきた。
「もう外へ出てもいいのですか。何処へお出でなんです」
「ええ、ちょっと池谷さんのところまで」
「ああ池谷さんのところへ――なるほど」といったが、彼は遽《あわ》ただしく聞き足した。「あのウ、池谷さんには細君があるんでしょうネ」
「ホホホホ、まだおひとりだっせ」
「ナニ、独り者ですか、これは変だ」帆村は笑いもしない。
「貴女《あなた》、池谷さんに来いと呼ばれたんですか」
「はあ、午前中に来いいうて、電話が懸ってきましてん。そしてナ、誰にもうちへ来る云わんと来い、そやないと後で取返しのつかんことが出来ても知らへんと……」
「うむうむうむ」
帆村は何を思ったものか、無闇《むやみ》に呻《うな》り声をあげると、糸子の袖を引張って道の脇の林の中に連れこんだ。
怪しき眼
麗人糸子は、わるびれた様子もなく、「池谷控家」と門標のうってある文化住宅のなかへズンズンと入っていった。しかし僅かここ数日のうちに、痛々しいほど窶《やつ》れの見える糸子だった。
糸子の父は、蠅男から送られた脅迫状のとおりに正確に殺害された。それはあまりにも酷い惨劇であった。お祭りさわぎのように多数の警官隊にとりまかれながら、奇怪にも邸内の密室のなかに非業《ひごう》の最期をとげた糸
前へ
次へ
全26ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング