念入りに附着しませんよ。今年は十一月からずっと寒い。東京は何度も雪が降った。それだのに昨日は雨が降ったというのですから、これは暖かったに違いないでしょう」
「はあ、そういうところから分りよったんやな、なるほど種は種やが、鋭い観察だすな。それはそれでええとして、青年の方が令嬢を朝早く迎えに行ったいうんは?」
「それは、上原君の靴だけではなく、カオルさんの靴にも同等程度の泥がついていたからです。つまり二人は同じ程度の泥濘《ぬかるみ》を歩いたことになります。それから燕号は、東京駅を午前九時に発車するのですから、朝早く迎えに行ったんでしょう」
「そうなりまっか。ちょっと腑に落ちまへんな。もし二人が駅で待合わしたんやってもよろしいやないか。そして、令嬢も上原も郊外に住んで居ったら、靴の泥も、同じように附着しよりますがな」
 帆村は、ここだという風に大きく肯き、
「ところがですネ、もっと大事な観察があるのです。二人の靴についている泥が、どっちも同質なんです」
「同質の泥というと――貴下《あんた》さんは、地質にも明るいのやな」
「ナニそれほどでもないが、二人の靴の泥を後でよく見てごらんなさい、どっちも泥が乾いているのに赤土らしくならないで、非常に青味がかっていましょう。染めたように真青です。だから、どっちも同質の土です。二人は同じ場所を歩いたと考えていいでしょう」
「へえーッ、さよか。そんなに青い泥がついとりましたか、気がつきまへなんだ。それはええとして、最後に、家が板橋区のどこやらとズバリと云うてだしたのは、これはまたどういう訳だんネ。令嬢を前から知っとってだすのか」
「いえ、さっきこの家で始めて会ったばかりです。だがチャンと分るのです。あのような青いインキで染めたような泥は、板橋区の長崎町の外《ほか》にないんです。もっと愕かすつもりなら、通った通りの丁目まで云いあてられるんですよ」
「へえ、驚きましたな。しかしまた、あんな青い泥がその長崎町だけにあって、外の土地には無いというのは、ちと特殊すぎますな。長崎町にあったら、その隣り町にもありまっしゃろ。そもそも地質ちゅうもんは――」
「ああ、あなたの地質の造詣《ぞうけい》の深いのには敬意を表しますが――」
「あれ、まだ地質学について何も喋っていまへんがナ」
「いや喋らんでも僕にはよく分っています。それにこの問題は地質学の力を借りんでもいいのです。つまりちょっと待って下さい、あれは地質上、あんなに青いのではないのですからネ」
「ほほン、地質で青いのかとおもいましたのに、地質以外の性質で青いちゅうのは信じられまへんな」
「いや信じられますよ。あなたはきょう東京から来た東京タイムスの朝刊をお読みになりましたか。読まない、そうでしょう。新聞を見るとあの長崎町二丁目七番地先に今掘りかえしていてたいへん道悪のところがあります。その地先で昨夜、極東染料会社の移転でもって、アニリン染料の真青な液が一ぱい大樽《おおだる》に入っているのを積んだトラックがハンドルを道悪に取られ、呀っという間に太い電柱にぶつかって電柱は折れ、トラックは転覆《てんぷく》し、附近はたちまち停電の真暗やみになった。そしてあたり一杯に、その染料が流れだして、泥濘《ぬかるみ》が真青になったと出ています。何もしらないで、現場へ飛びだした弥次馬《やじうま》たちが、後刻自宅へ引取ってみると、誰の身体も下半分が真青に染っていて、洗っても洗っても取れないというので、会社に向け珍な損害賠償を請求しようという二重の騒ぎになったとか、面白可笑しく記事が出ているんです。カオル嬢と上原君の泥靴の青い色からして、二人が今朝そこの泥濘《ぬかるみ》を歩いたに違いないという推理を立てたのです」
「な、な、なるほど、なるほど、さよか。特殊も特殊、まるで軽業《かるわざ》のような推理だすな」
「全くそのとおりです。運よく、特殊事情をうまく捉えただけのことです。しかしこれは笑いごとじゃないのです。あなたがたは官権というもので捜査なさるからたいへん楽ですが、われわれ私立探偵となると、表からも乗り込めず、万事小さくなって、貧弱な材料に頼って探偵をしなきゃならない辛さがあるんです。そこであなたがたよりは、小さいことも気にしなきゃならんのです。目につくものなら、何なりと逃《の》がさんというのが、私立探偵の生命線なんでして――」
「もう止せ、帆村君。手品の種明かしの後でながなが演説までされちゃ、折角《せっかく》保護している玉屋総一郎氏が蠅男の餌食になってしまうよ。そうなれば、今度は、こっちの生命線の問題だて」
 そういって村松検事は、時計を見ながら、帆村の肩を指で突いた。
 しかし、警官は、何に感心したものか、いつまでも、「なるほどなアなるほどなア」と独《ひと》り言《ごと》をいいながら、二人の出てゆくのにも気がつかない風だった。


   生きている主人


 夜はいたく更けていた。
 仰ぐと、寒天には一杯の星がキラキラ輝いていた。晴れ亙《わた》った暗黒の夜――
 ほとんど行人の姿もない大通りを、村松検事と帆村荘六の乗った警察自動車は、弾丸のように疾駆していった。
 天下茶屋《てんかぢゃや》三丁目は、スピードの上では、まるで隣家も同様であった。
 玉屋邸の前で、二人は車を下りた。
 扉を開けてくれたのを見ると、それは、帆村もかねて顔見知りの大川巡査部長だった。彼は直立不動の姿勢をして、
「――私がもっぱら屋外警戒の指揮に当っとります」
 と、検事に報告した。
「それは御苦労。すっかり邸宅を取巻いているのかネ」
「へえ、それはもう完全やと申上げたいくらいだす。塀外《へいそと》、門内、邸宅の周囲と、都合三重に取巻いていますさかい、これこそ本当《ほんま》の蟻の匍いでる隙間もない――というやつでござります」
「たいへんな警戒ぶりだネ」
「へえ、こっちも意地だす。こんど蠅男にやられてしもたら、それこそ警察の威信地に墜つだす。完全包囲をやらんことには、良かれ悪しかれ、どっちゃにしても寝覚《ねざめ》がわるおます」
 この巨大な体躯の持ち主は、頤紐《あごひも》をかけた面にマスクもつけず、彼の大きな団子鼻は寒気のために苺《いちご》のように赤かった。なににしても、たいへんな頑張り方だった。
 村松と帆村は、監視隊の間を縫って警戒線を一巡した。なるほど、映画に出てくる国定忠治の捕物を思わせるような大規模のものだった。警官の吐く息が夜目にも白く見えた。
 一巡後、二人は、厳重な門を開いて貰って、玄関に入った。
 さすがに屋内は、鎮まりかえっていた。でも座敷に入ると、襖《ふすま》の蔭や階段の下に、警官が木像のように立っていた。そして検事の近づくのを見ると、一々鄭重な敬礼をした。
「ああ検事さん検事さん。――」
 警戒総指揮官の正木署長が、向うからやって来た。彼も頤紐をかけ、足には靴下を脱いで、その代りに古|足袋《たび》を履いていた。それは捕物の際、畳の上で滑らないためらしかった。
「おお正木君か。――君、蠅男というのは何十人ぐらいで、隊をなしてくるのかネ」
「隊をなして? ――ハッハッハッ。検事さんのお口には敵いまへん。ともかくも屋内のどこからどこまで、私のとこで完全に指揮がとれるようになっとります」
「ウム、完全完全の看板|流行《ばやり》だわい」
「え、何でございます」
「いや、革の袋からも水が漏るというてネ、油断はできないよ。――主人公の居るところは何処かネ」
「ああ、それはこちらだす。どうぞ、こちらへ――」
 正木署長は、検事を廊下づたいに玉屋総一郎の書斎の前に連れていった。そこの扉の前には、鬼を欺《あざむ》くような強力《ごうりき》の警官が三人も立っていた。
 検事は扉《ドア》の方によって、ハンドルを握って廻してみた。
「ああ、あきまへん」と警官の一人がいった。「御主人が中に入って、自分で鍵をかけていてだんネ」
「中から鍵を――すると警官も中へは入れないのかネ」
「警官まで、蠅男の一味やないか思うとるようですなア」
「ちょっと会ってみたいが――」
「そんなら、扉を叩いてみまっさ」
 警官が、なんだか合図らしい叩き様で、扉をドンドンドン、ドンドンと叩いた。そして主人の名を大声で呼んでいると、やがて扉の向うで微かながら、これに応える総一郎の喚《わめ》き声《ごえ》があった。
「――さっき断っときましたやろ。もう叩いたりせんといておくれやす。そのたんびに心臓がワクワクして、蠅男にやられるよりも前に心臓麻痺になりますがな」
 主人公は、心細いことを云って、脅えきっていた。正木署長は検事に発声をうながしたが、村松はかぶりを振ってもうその用のないことを示した。で、署長が代って、
「――私は署長の正木だすがなア、なにも変ったことはあらしまへんか」
 すると中からは、総一郎の元気な声で、
「ああ署長さんでっか。えろう失礼しましたな。今のところ、何も変りはあらしまへん。しかし署長さん。殺人予告の二十四時間目というと午後十二時やさかい、もうあと三十分ほどだすなア」
「そう――ちょっと待ちなはれ。ウム、今は十一時三十五分やから――ええ御主人、もうあと二十五分の辛抱だす」
「あと二十五分でも、危いさかい、すぐには警戒を解いて貰うたらあきまへんぜ。私もこの室から、朝まで出てゆかんつもりや、よろしまっしゃろな」
「承知しました。――すると朝まで、御主人はどうしてはります」
「十二時すぎたら、此処に用意してあるベッドにもぐりこんで朝方まで睡りますわ」
「さよか。そんならお大事に、なにかあったら、すぐあの信号の紐を引張るのだっせ」
「わかってます。――そんならもう扉を叩かんようにお頼み申しまっせ。蠅男が来たのか思うて、吃驚《びっくり》しますがな」といって総一郎は言葉を切ったが、また慌てて声をついで、「――それからあのウ、池谷与之助《いけたによのすけ》は帰って来ましたやろか。そこにいまへんか」
「ああ池谷はんだっか。さあ――」と署長は後をふりかえって、警官の返事を求めたあとで、「どこやら行ってしもうたそうや。うちに居らしまへんぜ」
「ああそうでっか。おおきに。――そんならこれで喋るのんはお仕舞いにしまっせ」
 帆村は、さっきからしきりと両人の扉ごしの会話に耳を傾けていたが、このとき首を左右に振って、
「――喋るのはお仕舞いにしまっせ、か。これが永遠の喋り仕舞いとなるという意味かしら。ホイこれは良くない卦《け》だて」
 といって、大きな唇をグッとへ[#「へ」に傍点]の字に曲げた。


   天井裏の怪音?


「あれはなんだネ、池谷与之助てえのは」
 と、検事が署長にたずねた。
「その池谷与之助ですがな。さっき怪しい奴が居るいうてお知らせしましたのんは。夜になって、この邸にやってきよりましたが、主人の室へズカズカ入ったり、令嬢糸子さんを隅へ引張って耳のところで囁《ささや》いたり、そうかと思うと、会社の傭人を集めてコソコソと話をしているちゅう挙動不審の男だすがな」
「フーム、何者だネ、彼は」
「主治医や云うてます。なんでも宝塚に医院を開いとる新療法の医者やいうことだす。さっき邸を出てゆっきよったが、どうも好かん面《かお》や」
 と、署長は、白面《はくめん》無髯《むぜん》に、金縁眼鏡をかけているというだけの、至って特徴のない好男子の池谷与之助の顔に心の中で唾をはいていた。
「なんだ、怪しいというのは、たったそれだけのことかネ」
「いいえいな、まだまだ怪しいことがおますわ。さっきもナ、――」
 と云いかけた途端であった。
 突然、二階へ通ずる奥の階段をドンドンドンと荒々しく踏みならして駈け下りてくる者があった。それに続いてガラガラガラッとなにか物の壊れる音!
 男女いずれとも分らぬ魂消《たまき》るような悲鳴が、その後に鋭く起った。
 素破《すわ》、なにごとか、事件が起ったらしい。
「や、やられたッ。助けてえ――死んでしまうがなア――」
 と、これは紛《まぎ》れもない男の声。
 警官たちはハッと顔色をかえた。そして反射的に、その叫び
前へ 次へ
全26ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング