念ながら人間の足では競争が出来ない。
何か自動車を追跡できるような乗り物はないか。
そのとき不図《ふと》前方を見ると、路地のところから鼻を出しているのは紛《まぎ》れもなくオートバイだった。これはうまいものがある。帆村は躍りあがってそこへ飛んでいった。
それはオートバイと思いの外《ほか》、自動《オート》三輪車であった。それは大阪方面の或る味噌屋《みそや》の配達用三輪車であって、車の上には小さな樽がまだ四つ五つものっていた。そして丁度そのとき店員が傍の邸の勝手口から届け票を手にしながら往来へでてきたので、帆村は早速その店員のところへ駆けよった。
そこで口早に、車を貸してもらいたいという交渉が始まった。店員は目をパチクリしているばかりだった。なにしろ犯人追跡をやるんだから、ぜひ貸してくれといったが、店員は主人に叱られるからといって承知しなかった。そのうちにも時刻はドンドン経っていく。千載の一遇をここで逃がすことは、とても帆村の耐えられるところでなかった。
(問答は無益だ!)
帆村は咄嗟《とっさ》に決心をした。隙《すき》だらけの店員の顎《あご》を狙って下からドーンとアッパーカットを喰わせた。店員は呀《あ》ッともいわず、地上に尻餅をつくなり長々とのびてしまった。
「済まん済まん。あとから僕を思う存分殴らせるから、悪く思わんで……」
と、心の中で云いすてて、帆村は車の上にまたがった。そしてエンジンを懸けて走りだそうとしたが、彼はこのときなにを思ったものか、また地上に下りて、伸びている店員先生を抱き起した。
活を入れると、店員先生はすぐにウーンと呻りながら気がついた。それを見るより、帆村は店員先生を背後から抱えて、車の後部に積んだ味噌樽の上に載せた。
このとき店員先生はやっと、この場の事情を知った。
「こら、何をするんや、泥棒!」
拳骨を喰うわ、車は取られるわ、この上車の上に載せられようとする。彼は憤慨の色を浮べるより早く、帆村に喰ってかかるために樽の上に立ち上ろうとした。
帆村は早くもこれに気づいた。
「まあ落つけ」
彼は一言そう云ってヒラリと車に跨《またが》ると、素早くクラッチを踏んだ。自動《オート》三輪車は大きく揺れると、弾かれたように路地から走りだした。
「ああッ、あぶないあぶない」
店員先生は樽の上に立ちあがろうとしたが、たちまち車が走りだしたもので、車からふり落とされそうになった。それでまた屁ッぴり腰をして樽の上に蹲《かが》み、そして車からふりおとされないために顔を真赤にして一生懸命荷物台に獅噛《しが》みついた。
「こら、無茶するな、泥棒泥棒」
「そうだそうだ。もっと大きな声で呶鳴《どな》るんだ」
「ええッ」と店員先生は怪訝《けげん》な顔をしたが、「おお皆来てくれ、泥……」
といいかけて首をかしげた。
「こら妙なこっちゃ。この泥棒野郎が車を盗みよって、乗り逃げしてるのや。しかしその車の上にはチャンと俺が載っているのや。すると俺は車を盗まれたことになるやろか、それとも盗まれてえへんことになるやろか、一体どっちが本当《ほんま》やろか、さあ訳がわからへんわ」
ゴトゴトする樽の上に店員先生が車を盗まれたのかどうかということを一生懸命考えている間に、帆村は眼を皿のようにして前方に怪人の乗った自動車をもとめて自動三輪車を運転していった。
怪人の自動車は、道を左折して橋を渡ったものらしい。
温泉場の間を縫って狂奔していく三輪車に、湯治の客たちは胆をつぶして道の左右にとびのいた。
帆村は驀地《まっしぐら》に橋の上をかけぬけた。それから山道に懸ったが、やっと前方に怪人の乗った自動車の姿をチラと認めた。
「うむ、向うの方へ逃げていくな」
道が悪くて、軽い車体はゴム毯《まり》のように弾《はず》んだ。そのたびごとに、樽の上に御座る店員先生は悲鳴をあげた。
「モシ、樽の上のあん[#「あん」に傍点]ちゃん。この道はどこへ続いているんだね」
暴風雨《あらし》のような空気の流れをついて、帆村が叫んだ。
「この道なら、有馬へ出ますわ。お店と反対の方角やがナ」
店員先生が、半泣きの声で答えた。
「うむ、有馬温泉へ出るのか。――あと何里ぐらいあるかネ」
「そうやなア。二里半ぐらいはありまっせ」
「二里半。よオし、なんとしても追いついてやるんだ」
帆村の姿と来たら、実にもう珍無類《ちんむるい》だった。これはあまりにも勇ましすぎた。若い婦人に見せると、気絶をしてしまうかも知れない。なにしろ、正面からの激しい風を喰《くら》って、どてらの胸ははだけて臍《へそ》まで見えそうである。その代り背中のところで、どてらはアドバルーンのように丸く膨《ふく》らんでいた。ペタルの上を踏まえた二本の脚は、まるで駿馬《しゅんめ》のそれのように逞《たくま》しかったが、生憎《あいにく》とズボンを履いていない。帆村は怪人の自動車を追いかけるひまひまに、どてらの禍《か》をくりかえしくりかえし後悔していた。
現われた蠅男
帆村探偵の必死の追跡ぶりが、店員先生の鈍い心にも感じたのであろうか、それとも先生の乗った味噌樽があまりにガタガタ揺れるので樽酔いがしたのであろうか、とにかく店員先生は三輪車のうしろに獅噛《しが》みついたまま、もう泥棒などとは喚《わめ》かなかった。
「おう、樽の上のあん[#「あん」に傍点]ちゃんよオ」
帆村はまた声を張りあげて叫んだ。
「なんや、俺のことか」
「君、何か書くものを持っているだろう」
「持ってえへんがな」
「嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。それを破いて、二十枚ぐらいの紙切をこしらえるんだ」
帆村はハアハアと息をきった。自動車との距離はまだ五百メートルぐらいある。
「その紙片をどないするねン」
「ううン。――その紙片にネ、字を書いてくれ。なるべくペンがいい」
「誰が字を書くねン」
「あん[#「あん」に傍点]ちゃんが書いておくれよ」
「あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや」
「なんでもいい。是非《ぜひ》書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう」
「書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな」
「ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。生命が惜しくないか。僕はもう気が変になりそうなんだ。ああア、わわア」
これが店員先生に頗《すこぶ》る利いた。
「うわッ、気が変になったらあかへんが。書くがな書くがな。書きます書きます、字でも絵でも何でも書きます。ええもしどてら[#「どてら」に傍点]の先生、気をしっかり持っとくれやすや。気が変になったらあきまへんでえ」
帆村は向うを向いて苦笑いをした。
「君の名は何という」
「丸徳商店の長吉だす」
「では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。――蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。警察手配タノム、午後二時探偵帆村」
「なんや、ハエオトコて、どう書くんや」
「ハエは夏になると出る蚊や蠅の蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい」
「うへーッ、蠅男! するとこれはあの新聞に出ている殺人魔の蠅男のことだすか」
「そうだ。その蠅男らしいのが、向うに行く自動車のなかに乗っているんだ」
「うへッ。そんなら今あんたと私とで、蠅男を追いかけよるのだすか。うわーッ、えらいこっちゃ。蠅男に殺されてしまうがな。字やかて書けまへん。お断りや」
「また断るのかネ。じゃ、崖から車ごと飛び下りてもいいんだネ」
「うわーッ、それも一寸待った。こら弱ってしもたなア。どっちへ行っても生命がないわ。こんなんやったら、あの子の匂いを嗅ぎたいばっかりにフルーツポンチ一杯で利太郎から宝塚まわりを譲ってもらうんやなかった。天王寺の占師が、お前は近いうち女の子で失敗するというとったがこら正《まさ》しくほんま[#「ほんま」に傍点]やナ」
「さあ長どん。ぐずぐず云わんで早く書いた。向うに人家が見える。紙片を落とすのに都合がいいところだ。――さあ、ペンを持ってハエオトコとやった。――」
「うわーッ、か、書きます。踊っている樽の上でもかまへん。書くというたら書きますがな。しかし飛び下りたらあかんでえ」
たいへんな手間取りようであったが、遂に帆村の命令が店員長吉によって行われた。長吉は樽の上に腹匍《はらば》いになって、書きにくい字を書いた。そして一枚書けると、それを手帳からひきちぎって外に撒いた。始めは容易に肯《がえ》んじないでも、一旦承知したとなると全力をあげて誠実をつくすのが長吉のいい性格だった。彼はこの困難な仕事を一心不乱にやりつづけた。
自動車はすっかり山の中へ入ってしまった。怪人の乗った自動車との距離はだんだんと近づいて、あと二百メートルになった。この調子では間もなく追いつくことができるだろう。帆村は歯ぎしり噛んで、ハンドルをしっかりと取り続けた。彼の全身は風に当って氷のように冷えてきた。ガソリンの尽きないことが唯一の願いだった。
上り道が左の方に曲っている。
まず怪人の乗った自動車が左折して、山の端から姿を消しさった。続いて帆村と長吉との乗った自動三輪車がポクポクとあえぎながら坂道をのぼっていった。そして同じく山の端《はし》をぐっと左折した。このとき帆村は、前方にこんどは下りゆく自動車が急に道から外れそうになって走るのを見た。
「呀《あ》ッ、危いッ」
と、声をかけたが、これはもう遅かった。怪人の乗った自動車は、どうしたわけか次第に右に傾いて二、三度揺ぐと見る間に、車体が右に一廻転した。下は百メートルほどの山峡だった。何条もってたまるべき、横転した自動車は弾《はず》みをくらって、毬のようにポンポン弾みながら、土煙と共に転げ落ちていった。そして遂に下まで届くと、くしゃと潰れてしまった。帆村は辛うじて制動をかけて、三輪車を道の真中に停めた。
「うわーッ、えらいこっちゃ」
「うむ、天命だな。あんなに転げ落ちてはもう生命はあるまい」
帆村と長吉とは、車から下りて呆然と崖の底をジッと見下ろした。土煙がだんだん静まって、無慚《むざん》にも破壊した車体が見えてきた。車体は裏返しになり、四つの車輪が宙に藻《も》がいているように見えた。
暫くジッと見つめていたが、車のなかからは誰も這いだしてこなかった。
「さあ、すぐ下りていってみよう。自動車のなかには、誰が入っているか、そいつを早く調べなきゃならない。長どん、一つ力を貸してくれたまえ」
「大丈夫だすやろか。近づくなり蠅男が飛びだして来やしまへんか」
「いいや大丈夫だろう。死んでいるか、または気絶しているかどっちかだよ。しかし何か得物をもってゆくに越したことはないだろう」
気がついてみると帆村は腰に一本の鉄の棒を差していた。これは先刻、池谷控家の前の林の中で拾った護身用の鉄棒だった。帯に挿んで背中にまわしてあったので、うまく落ちないで持ってこられたのだった。長吉は仕方なく腰から手拭いを取って、その端に手頃の石をしっかり包んだ。もし蠅男がでたら、端をもってこの包んだ石をふりまわすつもりだった。
二人は、背の丈ほどもある深い雑草のなかを掻《か》きわけるようにして、山峡を下りていった。
十分ほど懸って、二人は遂に谷の底についた。幌《ほろ》は裂け鉄板は凹み、車体は見るも無慚《むざん》な壊《こわ》れ方《かた》であった。
帆村は勇敢にも、ぐるっと後部の方に廻ってから自動車の方に匍っていった。長吉は固唾《かたず》を嚥んで、帆村の態度を注視していた。
帆村は飛びつくようにして遂に車体にピッタリとくっついた。彼の首が次第次第に上ってきて、やがて幌の破れ目から車内を覗きこんだ。
そのときである。帆村が胆をつぶすような大きな声で叫んだのは……。
「これは変だ。自動車は空っぽだ。中には誰も乗っていないぞッ」
愕《おどろ》くべきニュース
折角《せっかく》幌自動車に追いついて、はては崖下
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