見廻し、机の上に載って居た亡き父の肖像入りの額面を取上げるより早いか二人の方に駆け寄り蠅男の顔面目掛けて発止《はっし》と打ち下ろした。
「うむッ。――」
 と蠅男は呻り声を挙げ、帆村の背後に伸びようとした鉄の爪がわなわなと虚空を掴んだ。
「糸子さん、危いからどいていらっしゃい」
 帆村は糸子に注意をした。そこに一寸の隙があった。それを見逃すような蠅男ではなかった。
「えいやッ――」
 と蠅男は腹の上に乗っていた帆村を下から座蒲団か何かのようにどんと跳ね飛ばした。
 あッと云う間に帆村は宙を一転して運よく寝台の上に叩き付けられたが、若しそこに柔い寝台が無かったら帆村の両眼はぽんぽん飛び出していたかも知れない。
 帆村はくらくらする頭を押えて、撥人形のように寝台を飛び降りた。この時素早く起き直った蠅男は右手を伸べて傍《かたわ》らのガラス窓を雨戸越しにバリバリと破り、その穴から化け蝙蝠《こうもり》のようにヒラリと外へ飛び出した。
 帆村が続いて外に飛び出して見ると、蠅男は何処へ行ったものか影も姿もなく、戸外には唯ひっそり閑《かん》とした黒暗暗《こくあんあん》たる闇ばかりがあった。


   帆村の奇略


 その翌朝のことであった。一夜を糸子の家に明かした帆村は、暁を迎えて昨夜の蠅男との恐ろしい格闘を夢のように思った。
 全く生命がけの争闘であった。こちらもたった一つしかない生命を賭け、怪物蠅男も亦その時は死にもの狂いで立ち向ったのだった。麗人糸子さえ、男子に優るとも劣らないような覚悟を以て死線を乗り越えたのだ。隙間を漏るる風にも堪えられないような乙女をして、こうも勇敢に立ち向わせたものは何か。それは云うまでもなく、乙女心の一筋に彼女の胸に秘められたる愛の如何に熾烈なるかを物語る以外の何ものでもなかった。
「帆村はん。もうお目醒め――」
 と麗人糸子は、憔悴《しょうすい》した面に身躾《みだしな》みの頬紅打って、香りの高い煎茶の湯呑みを捧げ、帆村の深呼吸をしているバルコニーに現われた。
「やあ、貴女ももうお目醒めですか。昨夜は若し貴女《あなた》が居なかったら、僕はこうして夜明けの空気など吸っていられなかったでしょう。うんと恩に着ますよ」
「まあ、なに言うてだんね。帆村はんこそうち[#「うち」に傍点]のため何度も危ない目におうてでして、どないにか済まんことやといつも手を合わせ
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