へ来て慎みを忘れたがために、折角糸子が提供しようという蠅男の秘密を聞く機会を失ってしまって、遂にこれまでの苦労を水の泡沫《あわ》と化してしまうのだろうか。


   怪! 怪! 蠅男の正体!


 玉屋本邸は、今宵《こよい》糸子を迎えて、近頃にない賑やかさを呈していたが、そのうちに午後九時となり十時となり、親類知己の娘さんたちも一人帰り二人帰りして、やがて十一時の時計を聞いたころには、五人の召使いの外には糸子只一人という小人数になった。
 夜は次第に更けるに従って、この広いガランとした邸はいよいよ浸みわたるようなもの寂しさを加えていった。そのうちに、昨日と同じく、風さえ出て、雨戸がゴトゴトと不気味な音をたてて鳴った。
 糸子はお松を寝所へ下らせて、彼女は只ひとり、かつて父親総一郎の殺された書斎のなかに入っていった。
「お父つぁん――」
 糸子は室の真中に立って、今は亡き父を呼んでみた。もちろん、それに応える声は聞かれなかったけれど。
 糸子は父が愛用していた安楽椅子の上に、静かにしなやかな体をなげた。そして机の上にのっている「論語詳解」をとりあげると、スタンドをつけて頁をめくっていった。
 そのうちに、いつしか糸子は本をパタリと膝の上に落とし、京人形のように美しい顔をうしろにもたせかけて、うつらうつらと睡りのなかに誘われていった。
 外はどうやら雨になったようである。
 そのときである。
 天井裏を、何か重いものがソッとひきずられるような気持ちのわるい音がした。――しかし糸子は、何も知らないで睡っていた。
 ゴソリ、ゴソリと、その不気味な物音は、糸子の睡る天井裏を匍《は》っていった。何者であろうか。召使いたちも、白河夜舟《しらかわよふね》の最中《さいちゅう》であると見え、誰一人として起きてこない。
 危機はだんだんと迫ってくるようである。
 するとゴソリゴソリの音がパッタリ停った。それに代ってコトリという音が、もっとハッキリ聞えた。それは天井裏についている四角な空気抜きの穴のところで発したものだった。
 そのうちに、なにやら黒いものが、その空気穴のなかから垂れ下ってくるのであった。それはだんだん長く伸びて、まるで脚のような形をしていた。そのうちに、また一本、同じようなものが静かに下って来た。どれもこれも、糸のようなもので吊り下げられているらしい。
 腕のようなものが
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