弱くなったようである。それはなぜであろうか。
「糸子さアん、どこにいますかッ」
 帆村は怒号しながら、次の部屋の襖をパッと開いた。ああそこにも糸子の姿は見えなかった。そこは八畳ほどの和室だった。押入の襖《ふすま》が一枚だけ開いて、箪笥《たんす》の引出が一つ開いて男の着物がひっぱりだされている。
 それだけのことだった。糸子の姿はやっぱり見あたらない。
 日頃冷静を誇る帆村もすこし焦《じ》れてきた。
 彼はその部屋を出て、北側にある洋間の扉を開いて躍りこんだ。しかしそこにも卓子や肘掛椅子が静かに並んでいるだけで、別に糸子が隠れているような場所も見当らなかった。
 しかしこの部屋に入ると共に、帆村の鼻を強くうった臭気があった。
「変な臭いだ。何の臭いだろう」
 スーッとする樟脳《しょうのう》くさい匂いと、それになんだか胸のわるくなるような別の臭いとが交っていた。
 彼は気がついて筒型の火鉢のそばへ駈けよった。
「あッ熱《あつ》ッ」火鉢のふちは何《ど》うしたわけか焼けつくように熱かった。帆村はそれに手を懸けたため、思わない熱さに悲鳴をあげた。
 火鉢のなかには、赭茶けた灰の一塊があった。これは何だろう。その灰の下を掘ってみたが、そこには火種一つなかった。悪臭が帆村の鼻をついた。
「ああそうか。あのフィルムをこの火鉢の中で焼いたんだ。『人造犬』のフィルムを買って来て、この火鉢のなかで焼いたというわけか」
 帆村は悪臭にたえられなくなって、窓に近づいてそこを開いた。冷い風がスーッと入ってきた。なぜフィルムを焼いたりしたんだろうか。そのとき彼は何気《なにげ》なく外を見た。そこはこの控家の裏口だった。垣根の向うに、どこから持ってきたのか一台の自動車がジッと停っていた。運転台も見えるが、人の姿はなかった。
「糸子さんは一体どこへ行ったのだろうか。たしかこの二階に上っていたんだが」
 帆村は滅入《めい》ろうとする自分の心になおも鞭うって、廊下に出た。どこか秘密室でもあって、そのなかに隠されているのではなかろうかと思って探したけれど、この二階に関する限りでは別に秘密室も見当らないようであった。
 そのときだった。家の外でゴトゴトジンジンと音が聞こえてきた。それは自動車のエンジンが懸ったのに違いない。自動車! 帆村はハッと気がついた。そうだ、家の裏口に自動車が停っているのを見たっけ。

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