蠅男
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蠅男《はえおとこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一種|香《かん》ばしいような

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と床上に
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   発端


 問題の「蠅男《はえおとこ》」と呼ばれる不可思議なる人物は、案外その以前から、われわれとおなじ空気を吸っていたのだ。
 只《ただ》われわれは、よもやそういう奇怪きわまる生物が、身辺近くに棲息《せいそく》していようなどとは、夢にも知らなかったばかりだった。
 まことにわれわれは、へいぜい目にも耳にもさとく、裏街の抜け裏の一つ一つはいうにおよばず、溝板《どぶいた》の下に三日前から転がっている鼠《ねずみ》の死骸《しがい》にいたるまで、なに一つとして知らないものはないつもりでいるけれど、しかし世の中というものは広く且つ深くて、かずかずの愕《おどろ》くべきもの[#「もの」に傍点]が、誰にも知られることなく密かに埋没《まいぼつ》されているのである。
 この「蠅男」の話にしても、ことによるとわれわれは、生涯この奇怪なる人物のことをしらずにすんだかも知れないのだ。なにしろこの「蠅男」がまだ世間の注意をひかないまえにおいては、これを知っていたのは「蠅男」自身と、そしてほかにもう一人の人間だけだった。しかもその人間は、事実彼の口からは「蠅男」の秘密をついに一言半句《いちごんはんく》も誰にも喋《しゃべ》りはしなかったのだから、あとは「蠅男」さえ自分で喋らなければ、いつまでも秘中の秘としてソッとして置くことができたはずだった。「蠅男」も決して喋りはしなかった。なんといっても彼自身の秘密は、世間に知られて好ましいものではなかったから。
 それほど堅い大秘事が、どうして世間に知られるようにはなったのであろうか?
 それは、臭《にお》いであった。
 煤煙《ばいえん》の臥床《ふしど》に熟睡していたグレート大阪《おおさか》が、ある寒い冬の朝を迎えて間もないころ、突如として或る区画に住む市民たちの鼻を刺戟した淡い厭《いや》な臭気こそ、この恐ろしい「蠅男」事件の発端であったのだ。


   妙《みょう
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