だ。残っているタッタ一つのものは、曰く『獏鸚!』こいつが手懸《てがか》りなのだ。なんという奇妙な手懸り! なんという難解な手懸り!……」
 帆村は机の上に肘《ひじ》をついて、広い額に手を当てた。私はもうすっかり帆村の悩んでいる事件の中に引き入れられてしまった。
「ねえ帆村君」と私は自信もないのに[#「自信もないのに」は底本では「自身もないのに」]呼びかけた。「ほら昔のことだが、源三位頼政が退治をした鵺《ぬえ》という動物が居たね」
「ああ、君も今それを考えているのか」帆村は憐むような眼眸《まなざし》を私の方に向けて云った。「鵺なんて文化の発達しなかったときのナンセンスだよ。一九三五年にそんなナンセンス科学は存在しない」
「そうでもあるまい。最近ネス湖の怪物というのが新聞にも出たじゃないか」
「怪物の正体が確かめられないうちは、ネス湖の怪物もナンセンスだ。君は頭部が獏で、胴から下が鸚鵡《おうむ》の動物が、銀座通りをのこのこ歩いている姿を想像できるかい」
 友人は真剣な顔付で私に詰めよった。私はすこし恐くなって目を反《そら》した。そのとき向いの壁に、帆村が描いたらしく、獏と鸚鵡とが胴中のところで継ぎ合わされているペン画が尤もらしく掛けてあるのを発見した。私はその奇妙な恰好が可笑しくなって思わず吹きだしてしまった。
 わが友人も、嫌な画を見られて失敗ったという表情をして、にやにや笑いだしながら、
「正にあの絵のとおりだとすると、実に滑稽じゃないか。しかしこの密書の断片は冗談じゃないんだよ。厳然として獏鸚なるものは存在するのだ。しかも、つい二三日前の日附でこの奇獣――だか奇鳥だか知らぬが――存在するのだ。ただいくら『奇蹟的幸運によった』としても、そんな獣類と鳥類の結婚は考えられない」
「手術なら、どうだ」
 と私は不図思い出して云ってみた。
「なに手術? そりゃどんな名外科医があって気紛《きまぐ》れにやらないとも限らないが、獏の方は身長二メートル半だし、鸚鵡は大きいものでもその五分の一に達しない。それではどこで接合するのだろう。もし接合できたとしても何の目的で獏と鸚鵡とを接合させるのだろう」
「目的だって? それは密書事件の状況から推して考え出せないこともなかろうと思うんだが……」
「そうだ」と帆村はいきなり椅子から立って部屋をぶらぶら歩きだした。「じゃ、君に、この密書に纏《まつ》わる事件を一と通り話をしよう……」
 それは私の最も望むところだった。


     2


 帆村はポケットに両手をつっこんでぶらぶら室内を散歩しながら、誰に話しかけるともなしに密書事件を次のように語りだした。
「昭和十年四月二十四日の朝刊に、上野公園の動物園前の杜《もり》の中で、一人の若い男が刺し殺されていたことが出ていた。被害者の身許《みもと》を調べてみると、もと『暁団』という暴力団にいた錨《いかり》健次こと橋本健次(二八)だということが判明した。暁団といえば、古い伝統を引いた江戸|生《は》えぬきの遊人《あそびにん》の団体だったが、今日ではモダン化されて若い連中ばかり。当時の団長は江戸昌《えどまさ》といってまだ三十を二つ三つ越した若者だった。――そこで錨健次は誰に殺されたか、何故殺されたかという問題になったが、ちょっと見当がつきかねた。ところが丁度僕が警察へ行っているときに名前を名乗らぬ不思議な人物から重大な密告の電話がかかっていた。『錨健次は、もとの指揮者江戸昌の命令で団員の誰かに刺し殺されたのだ。錨健次は暁団から足を洗って、江東のアイス王と呼ばれている変人金満家田代金兵衛の用心棒になっていた。ところが暁団では田代金兵衛の一億円を越えるという財宝に目をつけて、その手引を昔の縁故で健次に頼んだのだが、彼は拒絶してしまった。それでとうとう江戸昌が命じて刺殺させたのだ』というのだ。この電話の裡《うち》に警察では直ちに手配して、電話を掛けている密告者の逮捕を企《くわだ》てたが、向うもさる者で、僅か二分間で電話を切ってしまった。交番の巡査が駈《かけ》つけたときには、公衆電話函は塔の中のように静かだったという。……どうだ、聴いているかね」
 と帆村は私の前にちょっと立ち停った。私が黙って肯くと、彼はまたのそのそと室内の散歩を始めながら、先を続けた。
「謎の密告者については、戸沢という警視庁きっての不良少年係の名刑事がずばりと断定を下した。それは黄血社《こうけつしゃ》という秘密結社の一味に違いないというのだ。黄血社といえば国際的なギャングで、首領のダムダム珍《ちん》というのが中々の腕利《うできき》であるため、その筋には尻尾《しっぽ》をつかまれないで悪事をやっている。その上不良団をどんどん併合して党勢をぐんぐん拡張している。いまに何か戦慄すべき大事件を起すつもりとしか
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