に火が入ったな」
篠《しの》つく雨の中を、消防組の連中が刺子《さしこ》を頭からスポリと被ってバラバラと駈けだしてゆくのが、真青な電光のうちにアリアリと見えた。手押|喞筒《ポンプ》の車が、いまにも路《みち》の真中に引くりかえりそうに激しく動揺しながら、勢いよく通ってゆく。
……
「おう、火事は何処だア」
「勢町だア。稲田屋に落雷して、油に火がついたからかなわない。ドンドン近所へ拡がってゆく……」
「そうか、油に火が入ったのだと思った。蒸気|喞筒《ポンプ》はどうした」
「油に水をかけたって、どうなるものかアと騒いでいらあ。……」
それから暫《しばら》くたって、また別のニュースが町の隅々まで拡がっていった。
「稲田屋のお爺イとお婆アとが、焼け死んだとよオ。……」
「そうかい。やれまあ、気の毒に……。逃げられなかったんだろうか」
「逃げるもなにも、雷に撃たれたんだということだ。たとい生きていても、階下に置いてあった油に火がつけば、まるで生きながらの火葬みたいなものだ。どっちみち助からぬ生命《いのち》だ」
北鳴四郎が云った言葉が箴《いましめ》をなして、稲田老人夫婦は、悲惨なる運命のもとに頓死をしてしまった。惨劇の二時間がすんで、午後六時ともなれば、人を馬鹿にしたように一天は青く晴れわたり頭上には桃色の夕焼雲が美しく輝きはじめた。
油店からの火災も、附近数百を焼いただけで、それ以上延焼することもなく幸いに鎮火した。調査の結果によると比野町での落雷は意外に少く、僅《わず》か七ヶ所を数えるだけで、多くは電柱に落ち、人家に落雷したのは彼の稲田屋一軒だったとは、町の人々の予想に反した。
殊《こと》に人々を驚かせたのは、稲田屋の近くの高い櫓の上に、ズブ濡れとなっていた北鳴四郎が何の被害も受けなかったことだった。人々はたしかに幾度となく、櫓の上にピチンピチンと音がして、細いは細いながら閃光がサッと舞い下りるのを目撃した。あのとき櫓の上に人間が居たとしたら当然雷撃を蒙ったろうと思われるのに、町の客人、北鳴四郎が平然としてあの高櫓の上に頑張っていたとは、まるで嘘のような話だった。
夜に入って、北鳴は稲田屋の惨事を見舞いのために、人々の集っているところに訪ねてきた。そして二つの白い棺の前に恭《うやうや》しく礼拝《らいはい》したのち、莫大な香奠《こうでん》を供えた。彼がそのまま帰ってゆこうとするのを、人々はたって引留めた。そして口々に、彼の幸運話を聞かせてくれるようにと無心したのだった。
「私のことなら、別に不思議はありませんよ」と北鳴は云った。「避雷針を持っている者は、誰だって、ああいう風に平気で安全でいられますよ。但《ただ》し、これだけはハッキリ申して置きますが、避雷装置は完全でなければならないということです。先日、私はこの町で、恰好だけは仰々しく避雷針の形をして居り、その実、一向避雷針になっていない不完全避雷針を見ました。皆さん、本当の避雷装置というのは、あの尖《とん》がった長い針を屋根の上に載せて置くだけでは駄目です。あの針は、雷を引き寄せるだけの働きしか持っていないのです。あの針は、太い撚《よ》り銅線《あかせん》を結びつけ、その撚り銅線を長く下に垂らし、地面の下に埋め、なおその先に、一尺四方以上の大きな金属板をつけて置かなくちゃあ、避雷装置になりません。なぜって、その銅線は、針のところへ引き寄せた雷をそのまま素早く地中に流してやる通路なのです。つまり雷の正体は、電気なのですからね。その通路が完全に出来ていなければ、折角《せっかく》針に引き寄せた雷は、仕様ことなしに、柱や壁を伝わって地中へ逃げるから、それで柱や壁が燃えだしたり、その傍にいた人畜は電撃をうけて被害を蒙るのです。私の場合は、そういった避雷装置が完全に出来ていたので、櫓の上の四尺四方ほどの板敷の上に、平気の平左《へいざ》で雨に打たれていたというわけなんですよ。これで万事お分りでしょうネ」
聞いていた人々は、聞いている間だけは北鳴の話していることがよく分った。しかし彼の話が一旦終ってしまうと、なんだか模糊《もこ》としてきて、分ったような分らぬような気持になってきた。本当に分ったのは、小学校の先生と、そして年のゆかぬ中学生ばかりだったといってもよいくらいだった。
そのときだった。外から大きな花束を抱いて入って来た二人の男女があった。
「まあ皆さん、すみませんわネ。亡くなった両親のために、こんなにお集りいただいて……」
と、二十五、六にもなろうという楚々《そそ》として立ち姿の美しい婦人が挨拶をした。筆で描いたような半月形の眉の下に、赤く泣き腫れた瞼があって、云いは云ったが、その心の切なさをギュッと噛んだ可愛い唇に辛うじて持ち耐えているといった風情《ふぜい》だった。この女こそは噂の主、今は亡き稲田老夫婦の遺児お里に外ならなかった。――奥のかた霊前では、既に立ち去ろうとした北鳴四郎が、ばつの悪そうな、というよりも寧《むし》ろ恐怖に近い面持をして、落著《おちつ》かぬ眼《まなこ》を四囲にギロギロ移していた。
6
「奥に四郎さんが来ていますよ」
と、お里に注意をした者があった。
「まあ、四郎さんが……」
その昔の情人、北鳴四郎がこの町に帰ってきているとは、予《かね》て町の人々からうるさいほど噂には聞いていたが、思いがけなく、この奥に四郎が居ると聞かされて、お里は吾れにもなくポーッと頬を赤らめた。とたんに両手に抱えていた花束が、急にズッシリと重くなったのを感じた。
だが、その瞬間、お里の心は静かな湖水の水のように鎮まっていった。昔は昔、今は今である。今は夫英三に仕える心の外に、何物もない。何者にも恐れることはないのだ。恐らく四郎は、あの日、彼を裏切った自分や、露骨な妨害を試みた亡き両親などに復讐の念を抱いて、この町へ帰ってきたのだろう。しかしそれは今更、詮ないことだ。恨みといえば、恨みは彼女自身にあったかも知れない。なぜあのとき、四郎はもっと率直に、そしてもっと大胆に振舞ってはくれなかったのだろう。英三との縁談が降って湧いたとき、なぜ自分を唆《そその》かして、共にこの町から逃げようとはしなかったのだろう。お里に云わせると、四郎は温和な悧巧な美少年だったけれど、あまりにも心が弱かったし、女のように拗ねたがる男であったし、そして自らは知らぬらしいが見栄坊でもあった。彼は、そのために、決断力が足りなくて、そして自分で恋を捨てたようなものだった。彼は博士になるという話だが、人間放れのした博士には当然なれるかも知れない。しかし一人として血の通った女を手に入れることは出来ないであろうと思った。――彼女は、もうこうなれば、彼から恨みがましい言葉を聞いたときには、なにもかもその場に勇敢にぶちまけて、彼の卑屈な性根を叩きのめし、揚句の果に死んでしまってもいいと決心をした。
そこでお里は、重い花束を左手に持ちかえて、しずしずと奥の方へ進んでいったのであった。
「ほんとに四郎さんだったわネ。……ずいぶん暫くでしたのねえ。……」
四郎は木乃伊《ミイラ》のように硬くなっていた。
「やあ、お里ちゃん。暫くでしたネ。……ところで今度は、御両親たちは飛んだ御災難で……」
「ええ、飛んだことになりまして。……」
四郎の言葉には、すこし余所余所《よそよそ》しいところがあるばかりで、一向恨みがましい節も見えなかった。お里はこれを感ずると、それまでの張りつめた気が急に緩んで、全く弱い女になりきってその場に泣き崩れた。
すこし遅れて入って来た英三は、この場の光景に、ムラムラと憤懣《ふんまん》の気持を起した様子で、
「おお貴方が北鳴君ですか。僕がお里の亭主の英三です」
と、叩きつけるように云った。
それを聞くと同時に、四郎の顔から、今までの含羞《はにかみ》や気弱さが、まるで拭ったように消え去った。彼は、くそ落付《おちつき》に落付いて挨拶を交《か》わした。
「やあ……。申し遅れましたが、私が高層気象研究所の北鳴です。こんどは御両親が飛んだことで。……それに貴方も、類焼の難に遭われたとかで、なんともはや……」
この静かな挨拶に、英三とても自らの僻《ひが》んだ性根に赭《あか》くなって恥入ったくらいだった。
火を噴くかと思われた恋敵同士の会見が、意外にも穏かに進行していったので、一座は思わずホッと安心の吐息をした。それからのちも北鳴は、憎いほど謙遜と同情の態度を失わず、英三とお里とを反って恐縮させた上、最後に、彼等夫婦が想像もしていなかったような好ましい提言をした。それはこの比野町の西端に、新築の二階家があって、それを抵当流れで実は建築主から受取ったものの、自分はこの町に住むつもりはないので、空き家にして放っておくより法がない有様である。もし差支《さしつか》えなかったら、焼け出されたのを機会にといっては失礼だが、家賃なしでそこに住んでいてくれぬか。家が荒れるのが助かるだけでも自分は嬉しいのだがと、四郎は誠実を面《おもて》に現わして説明した。
この思いがけない申出に、行き所に悩んでいた英三夫妻は内心躍りあがらんばかりに喜んだがともかくその場は明答を保留することとした。そして再会を約して、穏かな一失恋者を門口《かどぐち》まで送っていったのであった。
四郎は外に出ると、暗闇の中でニヤリと薄気味の悪い笑いを口辺《こうへん》に浮べた。
「……今に見て居れ。……沢山驚かせてやるぞ!」
彼は口の中でそれを言って、獣《けだもの》かなにかのように低く唸った。――そして彼は、スタスタと歩を早めて、町外れの松吉の住居《すまい》さして急いだのであった。
その頃、松吉は家の中で、まるで熟柿《じゅくし》のようにアルコール漬けになってはいたが、その本心はひどく当惑していた。その原因は、膳を距《へだ》てて、彼の前に座を占めている真々川化助《ままかわばけすけ》に在った。
7
化助は、深酔に青ざめた顔をグッと松吉の方に据え直しながら、ネチネチと言葉を吐くのであった。
「おう……俺を見忘れたか。手前なんかに胡魔化《ごまか》される俺と俺が違わあ……どうだ、話は穏かにつけよう。あの青二才から捲き上げた金を五十両ほど黙って俺に貸せッ」
松吉は、顔一杯を顰《しか》めて、グニャリとした手をブランブランと振りながら、
「こら化助。お前はとんだ思い違いをしているぞ。この儂は、まだ鐚《びた》一文も、四郎から受取っちゃ居ねえのだ。これは本当だ」
「嘘をつけッ、このヒョットコ狸め! 誰がそれを本当にするものかい」
「……だから手前は酔っているんだ。……お前も知ってのとおり、四郎に請負った仕事は、たった一ヶ所だけ済んだばかりだ。約束どおり、あと二ヶ所の約束を果さなきゃ、四郎の実験は尻切れ蜻蛉《とんぼ》になるちゅうで、つまりソノ……お金は全部終らなきゃ、儂のところへは、わたらぬことになっとるじゃア! な、分ったろう」
「うまく胡魔化しやがる。……それは、ほ、本当かい」
「本当だとも、あと二ヶ所だ。……それが全部済んだら、きっと呑ましてもやるし、今云った金子《きんす》も呉れてやる。……」
「呉れてやるとは、ヘン大きくお出でなすったなア……だ。……じゃ松テキ、その約束を忘れるなよ。忘れたり、俺を袖なんぞにして見ろ。そのときは警察に罷《まか》り出で、おおそれながら、実は松テキの野郎と長い竹竿を持ちまして、町内近郊をかくかく斯様《かよう》でと。……」
「コーラ、何と云う。……」
松吉は矢庭に化助の後にとびかかって、その口を押えようとする。化助は、何を生意気なと後を向いて噛みついてくる。そこで膳部も襖《ふすま》も壁もあったものではない落花狼藉《らっかろうぜき》!
そこへヒョックリと、北鳴四郎が入ってきた。
「松吉さんは、御在宅かネ」
「ホーラ、誰か来た」というので、まず立ち上って狼狽を始めたのは前科四犯の真々川化助だった。彼はグッタリしている松吉を助け起してその胸ぐらを一と揺《ゆす》ぶりして、呼吸のあるのを確めた上、裏口
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