いか。一つは、無論、これで傷口をこしらえた故松山虎夫君の指紋です。今一つは彼の指紋ではない。この鋲を彼に使わせるように計《はか》らった彼《か》の犯人の指紋なんです。用意周到な犯人が、ありとあらゆる証拠を湮滅《えんめつ》することに成功しながら、唯一つ置き忘れた致命的の証拠なのです。
 どうです。心憶《こころおぼ》えはありませんか。そうでしょう。犯人は牌《こま》に塗った毒薬をアルコールのついた脱脂綿で拭うことに夢中になって、この鋲《びょう》の頭にのこる指紋を拭くことを忘れてしまったのです。――そこで園部さん、君の指紋をちょいと取らせていただきたいんですが……」
 園部の顔色《がんしょく》はこのとき急に蒼白《そうはく》に変じ、身体をブルブルと震わせたが、
「すまない、松山君!」
 そういうと、背後へドウと倒れてしまった。
     *   *   *
「あの鋲の頭に犯人の指紋はないと、君は言ったではないか」
 と雁金検事が不審そうに、あとで帆村に訊《き》いた。
「いやあれは――」
 と帆村が頭を掻《か》きながら言った。
「いやあれは兵法《へいほう》ですよ。あんなに機械のように正確な犯罪をやりとげた犯人も、やっぱり機械でない悲しさには、思いもつかぬことを指《さ》されると、ハッキリ用意ができていないために、急に『不安』が入道雲《にゅうどうぐも》のように発達して、正体まで顕《あらわ》してしまうのですね。これは屡々《しばしば》河口警部のお使いになる手で、私のは機を覘《ねら》ってうまく逆手に用いて成功させたのです。しかし逆手をつかったことといい、犯罪を目の前にみていて気がつかなかったことと云い、徹頭徹尾《てっとうてつび》私の大敗北ですよ」



底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1931(昭和6)年5月号
入力:taku
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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