あろうか。
練習艦明石にとって、記録すべき不祥事件の夜は、やがて明けはなれた。
「総員起し」の喇叭《ラッパ》が、艦の隅から隅へとひびくのであった。水兵たちは、また元気に甲板上を、そうして狭い艦内をとびまわる。平生とは、なんの変ったこともない風景であった。
午前十時、練習艦隊はいよいよ飛行島の繋留をといて出港ときまった。その用意のため、練習艦明石は、早朝から忙しかった。
当直将校は長谷部大尉だった。
「川上のやつはどうしたろう」
大尉は、前艦橋で飛行島の方を睨《にら》みつけながら、胸の中をぐっとついてくる憂鬱をおさえつけた。
一人の下士官が艦橋に上って来て、とことこと大尉の方に歩みよった。
長谷部大尉は、それと見るより、
「おう、御苦労。どうだった」
「はいっ。やはり駄目でありました。川上機関大尉は、今朝にいたるもまだ帰艦しておられません」
「うむ、そうか」
あとは黙って、大尉は飛行島の方へまた顔を向けなおした。
下士官は敬礼をすると、帰っていった。
(まだ帰って来ない)
大尉は口のなかでつぶやいた。
出港は、間近にせまっている。幼いときから、一しょに学び一しょに遊んできた川上を、この南シナ海の真中に残してゆくのは、実につらいことだった。
それも捜索したあげく、見つからなかったというのなら諦めもつくが、飛行島を眼の前にしながら、上陸厳禁という艦長の命令は、あまりにもつらいことだった。だが、軍規は、あくまで厳粛でなければならない。長谷部大尉の眼には、涙一滴浮かんでいないが、胸の中は、はりさけんばかりであった。
前艦橋に艦長が出てこられた。
いよいよ出港だ。
嚠喨《りゅうりょう》たる喇叭《ラッパ》が艦上にひびきわたった。
桁《ヤード》には、するすると信号旗があがった。
「出港用意!」
伝令は号笛《パイプ》をふきながら、各甲板や艦内へふれている。
艦首へ急ぐもの、艦尾へ走るもの。やがて、飛行島へつないでいた太い舫索《もやいづな》が解かれた。
機関は先ほどから廻っている。
そのうちに、飛行島の鉄桁が横にうごきだした。艦尾は白く泡立っている。小さい波が、後にひろがってゆく。
練習艦明石は、飛行島を離れたのだ!
一番艦の須磨はと見れば、もうかなり先へ進んでいる。
ららららら。ひゅーっ。
飛行島の上からは、さかんに帽子をふる、手をふる。白人も黒人も、顔の黄いろい東洋人も――。
ららららら。ひゅーっ。
飛行島の最上甲板には、飛行島建設団長のリット少将の見送る顔も見える。
桁には、また新たに信号旗がするするとあがった。
「出港に際し、リット少将に対し、深甚なる敬意を表す」
白髪紅顔のリット少将は、にっこりとしてまた挙手の礼を送った。
飛行島の信号鉄塔の上にも、安全なる航海を祈るという旗があがった。
飛行島に働いている連中は、仕事をやめて、盛んに手をふり、口笛をふく。
前艦橋につったって、長谷部大尉は双眼鏡を眼にあてて、この盛大なる見送りの人々をじっと眺めていた。顔、顔! 数百数千の顔を一人も見落すまいと!
鉄桁の間、起重機の上、各甲板、共楽街の屋根、アパートの窓――どこにも顔、また顔の鈴なりだ。
その中から大尉は心に念ずるただ一つの顔をさがし出そうとして、一生懸命であった。大尉の念ずる顔とはいうまでもなく、川上機関大尉のあの凛々《りり》しい顔であった。
長谷部大尉は、双眼鏡を眼にあてたまま、彫像のように動かない。その鏡中には、さだめし数えつくせないほどの顔が動いていることだろう。
「うむ、――」
とつぜん長谷部大尉がうなった。双眼鏡をもつ大尉の手が、ぶるぶるとふるえた。彼はいそがしく、双眼鏡のピントをあわせた。――
飛行島の第三甲板にある労働者アパートの、はしから三つ目の窓に、鈴なりの男女の肩越しに、頭に繃帯を巻いた東洋人の顔がこっちを見ていた。
大尉の胸は、にわかに高鳴った。
彼は穴のあくほど、その東洋人の顔をみつめた。そしてもっとはっきり見たいと思って、ピントを合わせなおしたが、そのとたんに、窓から消えさった。
それからは、いくど双眼鏡を向けてみても、もうふたたびその顔は入ってこなかったのである。
「ああ――」
と長谷部大尉は双眼鏡をおろして、嘆息した。
(あの頭に繃帯して、こっちを覗いていた男は、川上の顔のように思ったが、気の迷いだったろうか)
まさか川上機関大尉が、あのような労働者アパートの男女の中にまじっているとは、ちょっと考えられない。
「――どうも分からない」
大尉は吐きだすように独言をいった。
脱艦兵
軍艦明石は、ぐんぐん船あしを早めてゆく。
南方に遠ざかる飛行島を、長谷部大尉は胸もはりさける思いで、じっと見送った。
川上機関大尉
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