馬団のふところには、ひどくひびくのであった。この団長さん、なかなかこまかい人物だった。
二人は、にぎやかな商店街をぬけて、なんだか、せせこましい長屋町に入りこんだ。そこは鼠色《ねずみいろ》の土ほこりの立つ、妙にすえくさいさびた鉄粉《てっぷん》のにおう場所で、まだ、ところどころに、まっ黒な水のよどんだ沼地があった。
だが、房枝には、こういう建てこんだ棟割長屋《むねわりながや》が、ことの外《ほか》なつかしかった。それは房枝が、まだ見ぬ両親の家を思い出したからだ。
(こうした棟割長屋のどこかに、自分の両親が暮しているのではないか)
そう思えば、房枝には、一軒一軒の家が、ただなつかしくて仕方がないのだ。家々には、大勢の家族がにぎやかに暮している。なにやら、うまそうに煮えている匂《におい》もする。赤ちゃんが泣いている。よぼよぼしたお婆さんが、杖をつきながら露地《ろじ》の奥からあらわれて、まぶしそうに、通《とおり》をながめる。飴屋《あめや》さんが、太鼓《たいこ》を鳴らしながら子供たちをお供にして通る。
どれを見ても、一つとして、房枝にはなつかしくないものはなかった。房枝は、いくたびか、通りがかりのその棟割長屋へ、
(お母さま、ただ今)
と、はいっていきたくなって、困った。まだ見ぬ親をしたう房枝の心のうちは、ちょっと文字《もんじ》にものぼせられないほど、いじらしかった。
「さあ、地所《じしょ》は、あそこに見える空地なんだが」
と、黒川が、とつぜん立ちどまって、
「ところが、あの空地の持主の飯村《いいむら》という人の家は、どこか、この近所にあったはずだが、どこだったかなあ。だいぶん以前のことで、度忘《どわす》れしてしまったぞ」
と、新団長は、溜息《ためいき》をついて、あたりを見まわした。房枝の夢みる心は、黒川のこえのした瞬間に破れ、とたんに彼女は、現実の世界に引きもどされた。
「さてこのあたりに、ちがいないと思うのだが、房枝、わしは、このへんをちょっと探してくるから、お前、しばらくここに待っていておくれ」
そういって、黒川は路傍《ろぼう》に房枝をのこして、あたふたと向こうへ歩いていった。
工場地帯
房枝は、ひとりになって、路傍《ろぼう》に立っていた。通りがかりのおかみさんや、三輪車にのった男や、それから、近所のいたずらざかりの子供たちが、房枝を、じろじろ
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