士と看護婦長との会話にあらわれた問題の患者|宮川宇多郎《みやがわうたろう》氏は、わが身の上にこんな気がかりな話があるとはしるよしもなく、病室内を動物園の狼《おおかみ》のように歩きまわっている。
彼は今朝、病院内の理髪屋《りはつや》で、のびきった髪を短く刈り、蓬々《ぼうぼう》の髭《ひげ》をきれいに剃りおとし、すっかり若がえった。だが、鏡に顔をうつしていると、久しく陽に当らなかったせいか、妙に蒼《あお》ぶくれているのが気になった。それにひきかえ、後頭部の手術の痕《あと》は、ほとんど見えない。これは手術に電気メスを使うようになって、厚い皮膚でも、逞《たくま》しい肉塊《にくかい》でも、それからまた硬《かた》い骨でも、まるでナイフで紙を裂《さ》くように簡単に切開できるせいだった。よく気をつけてみると、毛髪《もうはつ》の下の皮膚が、うすく襞状《ひだじょう》になっているのが見えないこともないが、それが見えたとて、誰もそれを傷痕《きずあと》と思う者がないであろう。じつにおどろくべき手術の進歩だ。
そのように手術の痕は至極単純であるのにもかかわらず、彼はこの病院に一年ちかく入っていたのだ。
「おお、明日からは、自由の身になれる。うれしいなあ」
と、彼は子供のようにぴょんぴょん室内をとびあるいていた。そうかと思うと、急にむずかしい顔をして、ぶつぶつつぶやきながら動物園の狼になりきってしまう。
「想い出しても、おそろしい一年だった。いや、一年の月日がたったことは本当だが、自分は一年というものをすっかり覚えていないのだ。正気《しょうき》づいたときは、すでに半年あまりの月日がたっていたのだからなあ。その間《あいだ》自分は、全く無我夢中で、生死の間を彷徨《ほうこう》していたのだと後になって聞かされた。それからこっちも、ときどき変な気持に襲われた。なんだか、五体がばらばらに裂けてしまうような実に不快な気持に陥《おちい》ったのだ。なにしろ、物を考える機関である大脳の手術をやったのだというのだから、恢復までに、どうしてもそうした不安定な過渡期《かとき》をとるのだと黒木博士が説明してくれたが、そんなものかもしれない」
今も昂奮《こうふん》と憂鬱《ゆううつ》とが、かわるがわる彼を襲ってくるのだった。彼は、手術のことについて、博士に聞きただしたいたくさんの事柄《ことがら》をもっていた。だが博士は、
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