その朝の間中船醉をしてゐる仲間の苦しみ方は相當同情に値するものがあつた。
その前から私は仲間に船醉の藥などを與へてをつたが彼等はまる三日といふものはたうとう食堂にも出ないし食堂から持つて行つた食べものも殆ど口にしなかつた。丁度その頃我々は黒潮の上を乘切つてゐたのだ。
やがてその潮も乘切つて四日目、五日目となると海は次第に靜かになつた。さうして船醉してゐた連中もやつとベッド[#「ベッド」は底本では「ベット」]からそろ/\起上り始めた。たまにはサロンの長椅子に出て來るやうにもなつた。かうして、内地を離れて五日振りでやうやく彼等は船醉から一先づ解放されたのであつた。それから南洋の或る港に着くまでその人たちは再び船醉をしないで濟んだやうである。このやうな苦しみを一度經驗して馴れてしまへば、その後はたとへ船醉ひをしても比較的樂になるらしい。
船醉のことについて私は出發前にこれも一つの準備と思ひ、永く海の生活をしてゐられたことのある先輩に伺ひを立てたのであつた。その先輩に向ひ私は「どうしたら船醉せずに濟みますか」と訊いた。するとその先輩は非常に眞面目な顏になつて「あゝそれには非常に良いお呪ひがありますから、それを教へて上げませう」といはれた。私はそれを聽いて少からず失望した。お呪ひなどといふものはおよそ科學者と縁の遠いものである。だから、お呪ひを教へられても永い間科學畑に住んだ私共は迚もそれを唱へてみる氣になれないだらうと思つた。しかし折角お呪ひを教へてやらうといつて呉れたのであるから、聽かないのも惡いと思つて私は默つて耳を傾けた。その先輩は語を繼いで「船醉をしないお呪ひといふのはかういふことです、つまり自分は決して船に醉はないと信ずることである。別の言葉で言へば、自己催眠を掛け、自分は船に醉はないぞと自分を信じさせることです、これが一番よく效きます」と言はれた。
私はこれを聽いて非常に感心した。これは單なる迷信の部類に屬するお呪ひではない、非常に科學性を持つたお呪ひである。成程これは效くかも知れないと私は思つた。これを要するに、絶對に船に醉はないと信ずることによつて船に醉はないで濟むわけである。かういふことはよく平常も經驗するのであつて、僅か幅一メートルの溝川も、果して自分がこれを越えられるかどうかと不安に思ひながら跳んだのでは、足が石崖に引掛つたりしてたいてい跳越え損ねる。しかし、自分はこんな溝川なんか必ず跳越えられるのだといふ信念があつたなら、幅一メートルの溝川はおろか、たとへ幅二メートルの溝川でも至極見事に跳越えられるものである。また高跳競爭をやつても或る日は一メートル半の棒を樂に跳越せたのに又別の日には何となくこの棒が跳越せない氣がすると、その日は何回やつてみても、その棒を落すやうなことがよくある。それも總て一番初めに持つてをる自信の程度によつてかういふ結果が決るのである。であるから自分は決して船に醉はないといふ自信を初めに持つてをればさういふ自信を持つてゐないときに較べて遙に船醉をしないで濟む譯である。さういふところにこの船醉のお呪ひの科學性を感ずることが出來る。私は○○丸に乘船すると早速これを自分自身に試みた。私は南太平洋一萬五千浬を飛び歩いたが、その間一度も船醉を感じたことはなかつた。是は確にそのお呪のお蔭だつたと思ふ。
なほこの先輩はもう一つ船醉をしない方法を私に教へてくれた。それは更に科學的な手段であつた。それはどういふことであるかといふと、兩方の耳に大きな綿を出來るだけ固く詰め込むのである。大きな綿でなければいけない、後で用がなくなつた時に耳の穴から綿を取出すのに困る。かうすれば外から來るあらゆる音を防ぐことが出來る。この音のなかには、船醉を誘發する音が交つてゐるさうである。これは陸上にはない振動の音であつて、船なるが故に特に出す特別の振動音がある。それが耳の穴から内耳に傳つて、そこにある器官に働く。さうするとそれが頭の神經を通じて腦に廻つて船醉現象を誘致するといふ話である。つまり科學的にいつて、船醉は船の中に於て發するところの特別の振動音によつて起るのだといふ見解に基き、この振動音を内耳の或る器官に達せしめない爲に、耳の中に今述べた通り固く綿を詰め込むのである。「これも大變よく效く方法ですよ」とその先輩は私に話してくれた。この方法が果して效果があるかないか私は知らない。なぜなれば私は曩に述べた自己催眠の方法によつて完全に船醉をしないで濟んだので、この第二の耳に綿を詰める方法を實行する機會がなかつたのである。皆さんが試みられてもし第一の方法で利目がなかつたときは宜しくこの第二の方法を試みられたが宜しからうと思ふ。
船が段々南に降りて行くにつれて、海はびつくりするほど平穩になる。あたり一面、まるで湖水の如く
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング