(失敗った。金を取り戻しに来たか)
 と、余は、がっかりしたが、それは余の恐怖心に属するものであって、そうではなかった。
「いや、大事な忘れものをしましてなあ」
 客は、そういいながら、卓上に忘れていった『動物図鑑』という分厚な本を取り上げると、また、あわてふためいて、帰っていった。
 余は、胸の静まるのを待った。それから、十五分経った。これなら、もう客は帰ってこまいという自信がついたので、余はついに目的を達して、金の入った封筒の中を改めてみることが出来た。
 封筒の中には、手の切れそうな百円紙幣が一枚、入っていた。
 ああ、一金一百円也。
 夢ではない。そして客の依頼は、冗談ではなかったのだ。
 近頃めずらしく、大金が入ったので、余は、もう何にも考える気持になれなくなった。事務所を閉めて家路へ急ぐ。

      2

 ×月×日 晴。
 午前十時、田村町事務所へ出勤。
 きょうは、いよいよ、依頼者田方堂十郎氏のために、三本腕の発明の明細書を書く決心であった。
 机に向かって、ペンを取ったが、どうも気が落着かない。きのう懐に入った百円紙幣が、服を通して、はっきり輝いているような気がして、恥かしい。それに給仕の高木がそれを察して、背後の席で、にやにや笑っているように思えて、さらに落着けない。
「おい高木。これをやるから、映画でも見て来い。見てしまったら、あとは帰ってもいいぞ」
 高木を追払ってしまうと、余は、事務所の入口に、内側から鍵をかけた。もうこれで、誰も邪魔をしないであろう。余は、そこで百円紙幣を出して、机の上に置いた。この百円紙幣と、話をしながら、依頼の件について出願用の明細書を書こうというのであった。
「本願の、発表の名称は、どうしますかね」
「そうですわね、三本腕方式は、いかがでしょうかしら」
「三本腕方式ですか。いいですねえ。ええと。三本腕方式と」
 余は、そのように書きつけた。
「さて、その次は、その三本腕を、どこに取り付けるか、つまり取り付けの場所のことですが、なにか名案はありませんか」
「そうですね、まず、あなたから、先におっしゃってください」
「そうですね、臍の上はいかがでしょう。臍の上に、第三の腕を取りつけるのです。臍は、身体の中心ですからね。釣合の上では、そこへ取り付けるのが、一等いいと思います、かなり重い荷物をもつにも、そこにあるのが便利だと思います」
「あたくしは、臍の上に植えるのは、反対でございますわ。お嬢さんがたに植えた場合を、ちょっとご想像なさいませ、あまり美的ではございませんわ」
「もちろん、美的ではありませんが、一つは見慣れないせいですよ。見慣れると、それほどおかしくないと思いますが……」
「感心しませんねえ。それよりも、あたしくは、背中に取り付けてはいかがと思いますの。いったい人間は、背中の方に目がございませんためか、背中の方をいっこう使えませんが、それはどうも無駄をしているように思います。そこで、背中に第三の腕を取り付けまして、背面を活用いたします。そして、その第三の腕のつけ根は、他の二本の腕と同じ水平的高さに選ぶのが、力学的になっていいと思いますわ。荷物を持つのには、たいへん便利でいいと思いますのよ」
「それよりも、第三案として、両脚のつけ根のところは、どうでしょうか。ちょっと三本脚になったように見えますが、カンガルーや、尾長猿などは、太い尻尾をたいへん巧みにつかえますねえ、あのように活用するといいと思いますよ。両手に荷物をもって、夜道などするときは第三の腕で、懐中電灯をもちます」
「まあ、このへんのところでございましょうね。とにかく、第一案乃至第三案の、どれもが実現出来るように最小公倍数的な『特許請求範囲』をお書きになったら、いいじゃありませんか」
「そうですねえ。では、そうしましょう。どうも、ありがとうございました」
 というわけで、余は百円紙幣と、問答の末、ついに、特許請求範囲主文を、次のように拵えた。

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  特許請求ノ範囲
本文ニ記載ノ目的ニ於テ、本文ニ詳記シ且別紙図面ニ付説明セル如ク、略ボ腕ト等効ナル動作ヲナス機械腕ヲ、腕関節ノ運動ト無関係ナル如キ身体ノ部位ニ取付ケ、従来ノ二本ノ腕ト共ニ、少クトモ三本ノ腕ヲ保有操作シ得ルコトヲ特徴トスル多腕人間方式。
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 これでいい。
 発明者田方堂十郎氏は、人間が三本の腕を持つことだけしかいっていかなかったが、余は、『少クトモ三本ノ腕ヲ保有操作シ得ル云々ノ多腕人間方式』と書いて、その特許を使えば、三本腕はもちろんのことその範囲だし進んで四本腕、五本腕、六本腕と、いくらでも腕が殖やせるようにも、特許範囲を拡大した。ここらが、弁理士の腕前である。
 なお、この次に、『附記』として、第一項、第
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