分るかもしれん。その方の調べを急ごうや」
「いいですなあ」
 そこで一行は、一名の警官を後に残して、河田町の方へ自動車をとばしていった。ここで話をもう一度旗田邸へ引き戻さねばならないことになった。それは、ちょうど同じ頃の時刻であったが、旗田邸内に意外な事態が起ったので……。検事一行が三台の自動車に乗って賑やかに旗田邸を出かけてから五六分たった後のことであった。がらんとした[#「がらんとした」は底本では「がらんとして」]鶴彌の居間の入口に、姿を現わした者があった。
「もしもし。どなたか居ませんか」
 やや低目の声で、その人物は呼んだ。それは亀之介だった。誰もそれに返事をする者がなかった。彼は部屋の中を覗きこんだが、室内は乱雑に椅子が放り出されてあるだけで、その上に尻を乗せていた連中の姿は一人もなかった。警戒の警官さえが居ないようであった。親玉が行ってしまったので、これ幸いと鬼の留守に洗濯をやっているのであろうと、彼は思った。
「おやおや。こう散らかされちゃかなわんねえ」
 彼はあたりへ気を配りながら、室内へ足を踏み入れた。が、急に彼の行動は敏捷となった。彼はテーブルの傍へ寄った。そしてポケットから白いハンカチーフを出して卓上にひろげた。それから彼はすこし前にかがみこんで、手を灰皿へ伸ばした。彼の両手の指が、灰皿の上の黒ずんだ灰を――紙を焼いたらしい灰であるが、それをそっと持ちあげ、ハンカチーフの上へ移した。灰は案外にしゃちほこばっていて、途中で崩れるようなことはなかった。
 彼は急いで灰をハンカチーフの中に丸めこみ、上衣の左のポケットへ押しこんだ。彼の仕事は、まだそれで終ったのではなかった。彼は右のポケットから白い紙を折り畳んだものを引張り出した。それを指でつまんでひろげた。四つ折になっていた純白の無罫のレター・ペーパーだった。それを灰皿の上へ持っていった。それからライターを出して火をつけた。ライターの焔を、紙へ移した。紙はめらめらと燃えあがった。そしてあとに黒ずんだ灰を灰皿の上いっぱいに残した。彼は煙草を一本つまみだして口にくわえた。そしてこれに火を点じて、急いで煙を吸った。が、たちまちはげしく咳きこんだ。煙にむせたからであった。彼は周章《あわ》てて戸口の方へ急いだ。足を廊下へ一歩踏みだしたと思ったら、彼は声をかけられた。彼は咳きこんでいて、よく目が見えなかったのだが、そのとき廊下をこっちへゆっくりと歩いて来た人物が、亀之介の姿を認めたのである。
「ほう、どうしました、亀之介さん」
「やァ、煙草にむせちゃって――あっ、帆村君ですね」

   地獄の使者

 帆村荘六だった。彼は検事たちと共に確かに自動車に乗って出掛けた。それがなぜここに姿を現わしたのであろうか。
「一度あなたとゆっくり話し合いたいと思っていたのですがね。今丁度いいですね、中でお話を伺いましょう。さあどうぞ」
 帆村にすすめられて、亀之介は割り切れない気持で、室へ再び足を踏み入れた。と、部屋の隅の洗面器のあるところのカーテンをはねあげて、一人の警官が出て来た。亀之介はどきんとした。この部屋には誰も居ないと思っていたのに、どうしたことであろう。
 その警官は帆村へ何か合図を目で送ると、椅子を整頓し、二人の話しやすいように並べかえた。
「どうぞ。お席が出来ました。お茶も持って参りましょう」
 警官は部屋を去った。帆村は亀之介にすすめて椅子へかけてもらい、自分もその向こうに腰を下ろした。
「早速ですが、旗田さん、ケリヤムグインというあの毒瓦斯材料をあなたはどこで手にお入れになったのですか」
 帆村の唐突の質問に、亀之介の顔色はさっと変った。
「知らんですな、そんなこと……」
「ケリヤムグインはドイツで創製せられた毒瓦斯材料で、常温では頗る安定な油脂状のものです。それを高温にあげ、燃焼させますとたちまち猛烈な毒瓦斯となります。ケリヤムグインの一ミリグラムは、燃焼して瓦斯体となることによって、よく大広間の空気を即死的猛毒性に変じます。――あなたは、ケリヤムグインを書簡箋に吸収させました。そしてその書簡箋は、缶詰の中に厳封して、旗田鶴彌氏へ送ったのです。もちろんその書簡箋には、或る文句が書いてありましたがね。……如何です。それを否定なさいますか」
「もちろん否定する。そんな馬鹿気た話を、誰が真面目になって聞くものですか」
 亀之介は腕組みをして嘯く。帆村はいよいよ静かな態度で、次なる言葉を繰り出す。
「その書簡箋を鶴彌氏が取出すと、文面を読んで確かめた上で、火をつけて焼き捨てたのです。その焼き焦げの黒い灰が、あそこの灰皿の上に載った。その頃鶴彌氏は、猛毒瓦斯を吸って中毒し、氏の心臓はぱったり停ってしまったのです。そしてそのお相伴をくらって、あそこの洗面器の下の下水穴から顔を出した不運な溝鼠が、鶴彌氏に殉死してしまったというわけなんですが、如何ですな」
「大いへん面白い御創作ですね。どこかの懸賞小説に投稿なさるといいですなあ」
「その書簡箋に書いてあった文面が、また興味あるものなんです。こう書いてありましたがね、“告白書。拙者乃チ旗田鶴彌ハ昭和十五年八月九日午後十時鶴見工場ニ於テ土井健作ヲ熔鉱炉ニ突落シテ殺害シタルヲ土井ガ自殺セシモノト欺瞞シ且ツ金六十五万円ノ会社金庫不足金ヲ土井ニ転嫁シテ実ハ其ノ多クヲ着服ス、其後土井未亡人多計子ヲ色仕掛ヲ併用シテ籠絡シ土井家資産ノ大部分ヲ横領スル等ノ悪事ヲ行イタリ、右自筆ヲ以テ証明ス。昭和十六年八月十五日、東京都麹町区六番町二十五番地、旗田鶴彌印”――というんですが、これは如何です」
 帆村はメモを見せながら訊いた。亀之介は、ふふんと鼻で嗤《わら》った。
「兄貴は悪い奴ですね」
「こういう貴重な告白書が缶詰の中に入って届けられたものですから、鶴彌氏としては狂喜して、早速それをその場で火をつけて焼き捨てたのですが――まさか自分の書いたその告白書にいつの間にか猛毒ケリヤムグインが浸みこませてあったとは知らず、鶴彌氏は狂喜の直後に地獄へ旅立ったという――これは如何です。御感想は……」
「なかなかお上手ですな、小説家におなりになった方が成功しますね」
 帆村は肯いて、メモをポケットに収った。
「それでは失礼ですが、あなたの左のポケットに入っているハンカチーフをお見せ願いたいのですが……」
 亀之介はぎょっとして立上った。帆村もまた立上った。亀之介は、あたりへ急いで目を走らせたが、戸口のとこへ、さっきの警官を始め二名の新手の警官が現われて、しずかに中へ入って来た。
「失礼ながらさっきあなたが黒い灰をハンカチーフにお収いになったことは、進藤君――そこに居る警官が、あそこの洗面所のカーテンのうしろから一伍一什拝見していたんですよ。うまく掏《す》りかえたおつもりでしたね」
 これは亀之介への止めの刃であった。
「これが欲しいのならあげますよ」
 亀之介は観念したものか、太々しくいって、ポケットからハンカチーフ包をとりだして帆村の方へ差出した。
「だがね帆村君。中の灰はこのとおり微粉状になっていますよ。お気の毒ながら、さっき読んだ告白書の文句も見えず、それから……」
「それからケリヤムグインも燃焼して、その痕跡も残っていないと仰有るのですか」
 帆村はぐっと唇を横に曲げた。
「そういう御心配があるのなら、あとから御覧に入れましょう。あなたのお取替になった黒い灰は、あれは僕があとから拵えておいた第二世なんです。第一世は、灰の形もくずさず、硝子の容器におさめて、あっちに保存してあります」
「えっ」
「もちろんその灰に、紫外線をかけましてね、さっき読み上げた告白書の文句を読み取ったのです。それからあなたさまにはたいへんお気の毒ながら、その告白書の一部が燃え切らずに残っていましてね――あの黒い灰を灰皿から横へ移してみて始めて分ったのですが、灰の下に、一枚の切手位の面積の燃えない部分が残っていたのですよ。それを分析して――なにをなさる」
「は、はなせ」
 亀之介は、椅子を台にして窓の枠へとびのり、外へ飛び下りようとした。が、警官が素早くその片足をつかまえてしまった。
「身体検査をして下さい。心配ですからねえ」
 帆村はそれを頼んだ。亀之介の身体は厳重に調べられた。
「そこに妙なところにポケットがある。なにか入ってやしませんか」
「あ、ありました。薬の包らしいが……」
 亀之介はそれを取戻そうとしてもがいた。しかしそれは帆村の手に渡った。
「ああ危かった。これが例の猛毒ケリヤムグインらしい。これをこの部屋で煙草でも交ぜて燃されるものなら、この人と一緒にわれわれも一緒に[#「この人と一緒にわれわれも一緒に」はママ]無理心中というわけだ。おお、あぶなかった」
 警官たちは目をぱちくり。
「すると――すると当人の持っている煙草もみんな危険物なんですね」
「そうです。煙草もみんな押収しておかれたがいいでしょう」
 このとき亀之介の手首には、手錠がかかった。彼は椅子にどっかと尻を据え、自由な方の手で、自分の頭を抱いた。

   呪わしき人々

 事件は解決したのだ。亀之介は、鶴彌殺しの犯人容疑者として本式に拘引された。それから取調べによって彼の犯行たることは十分確実となった。
 それはそれとしてこの物語の上では、まだ書き足りないところがあるようだから、それを補足しておきたい。帆村は、長谷戸検事たちと一緒に、お手伝いお末のアパートへ出発しながら、いつの間にか旗田邸に戻っていた。そのわけは、帆村が旗田邸内にトリックを仕掛けておいたので、それにひっかかる相手の様子を見るために、自動車が通りへ出ると間もなく車を停めてもらって、彼は旗田邸へ引返したのであった。もちろん検事には、このことを予《あらかじ》め打合わせずみであった。トリックというのは、もちろん旗田亀之介を鶴彌の広間へひき出して、あの灰皿の上の黒ずんだ灰を盗ませるためだった。そしてそれを確認するために、警官の一人を洗面所のカーテンの蔭にかくしておいたことは、既に陳べたとおりである。
 一方検事たちの一行は、お末のアパートの捜査をすませたのち、ミヤコ缶詰工場へとびこんだ。まず問題は、お末すなわち本郷末子の行状を調べることと、例の空き缶についていた未詳の指紋の主を探しあてることだ。お末の評判は悪くなかった。すこしヒス気味ではあるが、仲々よく働く女で、この工場でも相当目をかけていることが分った。況んやこの婦人に、浮いた噂のあろうはずがなく、またそうかといってひねくれて人殺しをするような気配もなかったことを証言する人々があった。
 要するにお末は、出来るだけ働いて、貯金を殖やすことが楽しみであったのだ。そういう女が殺人罪を犯すようなことは殆んど考えられなかった。しかしなぜ彼女の指紋が、問題の空き缶についていたのであろうか。この点については俄に解決がつかなかった。
 そこで次に、未詳の指紋の主の調べに入ったのであるが、これは案外楽に見つかった。井東参吉というのが、その指紋の主であったのだ。彼井東は、この工場の工員の一人であって、試験部附の缶詰係だった。つまりこの工場で、まだ売出し前の食料品を試験的に缶詰にする工程において、彼はそれの最後の仕事として、蓋をつけて周囲を熔接して缶詰に出来上らせる部署で働いていた。彼のところには、自動式ではなく手動式の缶詰器械があった。これは旧式のものだが、数の少い試験用缶詰をパックするには便利なものであった。
 井東は三十歳ばかりの、この工場では古顔の工員であった。彼には一つの気の毒な病気があった。麻薬中毒者なのであった。彼は取締のきびしい中をくぐって、麻薬を手に入れなければならない悩みを持っていた。そんなことから、彼は普通の製造工程のところから遠ざけられて、試験部で働いていたわけである。
 井東を調べたところが、はじめは仲々いわなかった。しかし取調べの途中で、彼が麻薬中毒者であることも分り、それから糸がほぐれていって、遂に彼が白状したところによると、問題の軽い缶詰は、旗田亀之介に頼まれて、彼井
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