は午後十一時半前後だし、君が主人に送られてこの家を出たという時刻は――主人が君を送ったと証言するのは君だけなんだが、ともかくも君がこの家を出た時刻は午後十一時だ。これだけいえば、君は主人を殺し得る只一人の人物だった。家政婦の小林と芝山は、その頃は小林の部屋でしっぽりよろしくやっていたので、主人を手にかけるどころじゃなかった。さあそこで、君は、この家の主人をどうして毒殺して去ったか、それについて実行した通りを陳《の》べなければならない。さあどうだ」
 三津子は、いよいよ身体を固くして、歯をかみならしただけで、応えなかった。
「どうしたんだ。黙っていちゃ分らん」
 警部の語気が荒くなった。でも三津子は口を開こうとしない。
「ちょいと君、大寺君」と検事が呼んだ。
「そういうもう既に答の出ていることは訊いても仕様がないじゃないか。もっと新しい事実の方を掘りだして、事件の解決を早くしたいもんだね」
 警部はいやな顔をした。帆村探偵が、おどろいたような顔で長谷戸検事の方を見た。
「ですが検事さん」と警部はいった。
「この女が如何にしてこの家の主人に毒を呑ませ、そしてこの邸からずらかったか、それを当人から聞くとは[#「聞くとは」はママ]新しいことではないですか」
「主人の死んでいた部屋には、内部から鍵を廻してあった。三津子君が殺したものなら、どうしてその密室から出るか。玄関にも、内側から錠を下ろしてあったのだよ」
「ここの窓から飛び下りられますよ。窓には鍵がかかっていなかった。二枚の合わせ硝子戸を寄せてあっただけですから」
 警部の毅然たる解答に、帆村がにんまりと笑った。
「待ちたまえ。窓枠にも窓下にも、三津子君の足跡も指の跡もなかった。たとえ若い婦人がいざという場合には、こんな高い窓から外へとび下りることが出来ると仮定してもだ。しかもその窓硝子を外から締め合わせたとなると、この婦人は女賊プロテアそっちのけの身軽だといわなければならない」
 これには大寺警部も、すぐに応える言葉を知らなかった。窓のところの証拠固めは彼がしたのであったから、今彼は自縄自縛の形になってしまったわけだ。
 検事は、それごらんといいたげな顔。
「甚ださし出がましいですが、それはこうも考えられますね」帆村が沈黙を破って、しずかに足をはこんで三津子の前へ出て来た。「つまりですね、まず旗田鶴彌氏に毒をのませる。その毒がまだきいて来ない前に旗田氏に玄関まで送らせて自分は外へ出る。旗田氏は玄関を締め、それから居間に錠をおろしてこの部屋にひとりぼっちとなる。そのうちに毒がきいて来て、氏は皮椅子の中で絶命する――というのはどうです」
「ああっ、それだ」
 大寺警部は失せ物を届けられたときのように悦んだ。検事の方は、同意を示すためにしょうことなしに頭をちょっとふった。
「土居三津子。今の話を聞いたろう。あの通りだろう」
 警部は三津子にいった。三津子は兄の友人である帆村の発言に気をよくしたのもほんの一瞬のことで、論旨を聞けば気をよくするどころではなかった。それで彼女は涙を出した。
「いや、警部さん。僕が今言ったのは、単なる有り得べき解答の一つをご紹介しただけのことです。僕はこの婦人が、そういう方法で旗田氏に毒を呑ませたのではないと確信しています」
 帆村は必ずしも警部の説を支持していないことが分った。
「今君の指摘した方法に違いないと思うんだが……」
 警部は新たな確信に燃えて言い張る。
「いや、その解釈には一つの欠点があるのです。そういえばもうお分りでしょう」
 そういって帆村が口を噤むと、一座は急に静かになった。係官たちは帆村にそういわれて何事かを思い出そうと努めたが為である。だが、いつまでたっても、誰も発言しない。
「もうお忘れになりましたか。鼠の屍骸のことです。あそこの洗面器の下に死んでいた鼠のことです」
 ああ、と声を発する者もあった。帆村は言葉を続けた。
「あの鼠の死因は、古堀博士の鑑定の結果、中毒による心臓麻痺だと報告せられているのです。おもしろいではありませんか、鼠も旗田氏も同じ原因によって同時に生命を絶っているのですからね」
「それはたしかに興味がある話だ」と検事がいった。
「で、君の結論はどうなんだ」
「結論は今のところそれだけですよ。いや、それをちょっと言い換えましょうか。旗田鶴彌氏もあの鼠も、共に瓦斯体によって中毒したんだといえるのです。――だから、まずこの婦人はこの部屋にいる間にそれを行ったのではないということが分る。なぜならば、そんなことをすればこの婦人も共に瓦斯中毒によってその場に心臓麻痺をおこさねばならないわけになりますからねえ」

   嘯《うそぶ》く亀之介

 瓦斯《ガス》中毒による心臓麻痺鋭だ。本当かしらん?
「面白い考えだが、それを証拠立てることができるだろうか」
 長谷戸検事は大いに心を動かしながら、しかも立証困難と見て自分の心の動揺を制している。
「それはあんまり突飛すぎる。これまでのわれわれの捜査を根本からひっくりかえすつもりなんですか、君は……」
 と、大寺警部は露骨に不愉快さをぶちまけた。
「結果に於てそういうことになるのも已むを得ないですね、もしも僕が今のべた説が真に正しいものであれば……」
「君は、瓦斯中毒説が正しいと思っているのか、それともまだそれほど確信がないのか、どっちなんだい」
「警部さん。僕はほんのすこし前に、瓦斯中毒説をここで主張していいことに気がついたばかりです。これを証拠立てることは、僕としてもこれからの仕事なんです。しかし僕は今後この方面に捜査を続けます。とにかくこの場は、妙な嫌疑をおしつけられそうになった土居三津子氏のために、弁じたことになればいいのです」
 三津子に対する訊問は、この際ちょっと脇へ寄せておく外なかった。帆村の言い出した瓦斯中毒説は、真偽いずれにしても多数の論点を抱えこんでいる重大なる問題であったから。だから検事が、
「瓦斯中毒説を、もうすこし深く切開してみようじゃないか」
 といったのは尤もだった。
「まず先に、私にいわせて貰おう」と検事は言葉を続けた。「瓦斯中毒のために、この家の主人鶴彌と一匹の溝鼠《どぶねずみ》とが同時に心臓麻痺で死んだとする。そういうことは如何なる状況の下に於て在り得べきことか。その毒瓦斯は如何なる種類のもので、どこにどうして保存されてあったか。そしてそれは如何に殺人のために用いられたか。それからその毒瓦斯は鶴彌と鼠一匹を斃《たお》しただけで、他に被害者を生じなかったのはどういうわけか。――まあ、ざっとこれだけのことが明白にせられなければならないと思う。そうじゃないかね、帆村君」
 帆村は聞き終って、かるく肯きながら検事の方へ静かに向き直った。
「正直なことを申すなら、今検事さんが提示された諸件について、僕は一々満足な回答を持ち合わせていません。つまり、これから調べたいと思うことばかりなんです。なにしろ気がついたのが、つい先刻のことだったものですから――ですが、こうなれば僕は、検事さんのお許しを願って、その方向の捜査をしながら一々回答を出して行こうと思うんですが、どうでしょう」
「つまり君は、瓦斯中毒説を立証する捜査を自分に委せよ、そして皆ついて来いと、こういうんだね」検事はいった。「それもいいだろう。私は君にしばらく捜査を委せてもいいと思う。外に誰か異議があるだろうか。異議があればいいたまえ」
 誰も異議を唱える者はなかった。そこで帆村は独自の捜査を進行することとなった。
「まず旗田亀之介氏を訊問したいのです。ここへ連れて来て頂きたい」
 何のための故人の弟の訊問か。
 やがて亀之介は入って来た。今日は服装も前日に比べてきちんとしている。昨夜の酒量も呑み過ぎたという程ではない顔色だった。
「もう真犯人はきまりましたか。誰でした。え、まだですって、まだ分らないんですか。なるほどこれは大事件だ。連日これだけの有数な係官を擁しても解けないとは。……検事さん、兄は心臓麻痺で死んだという話だが――ええ、早耳でね、僕のところへも聞えて来ましたよ――するてえと兄は病気で急死したんじゃないんですか。しかしそれではあなた方の引込みがつかないから、これは……」
「そこへお懸けなさい。今日は帆村君が代ってお訊ねします」
 検事は亀之介の騒々しい毒舌を暫く辛抱して聞いた上で、空いた椅子を指した。亀之介は、それをいつものように窓の方へ少し引張って腰を下ろした。
「あなた、失礼。その棚の上にある灰皿を一つこっちへ。やあ恐縮」
 警官の手から灰皿を受取ると、亀之介はそれを窓の枠の上に置き、ケースから紙巻煙草をとりだして火をつけた。
「旗田さんに伺いますが、窓の外から兄さんを撃ったピストルを、家政婦の小林さんの部屋の花瓶の中に入れたのは、どういうおつもりだったんですか」
「ええッ、何ですって……」
 おどろいたのは亀之介だけではなかった。長谷戸検事も大寺警部もその他の係官も、帆村のいい出したことが意外だったので、おどろいた。そんなことは瓦斯中毒説についての訊問ではなく、中毒説以前の捜査への復帰ではないか。尤も亀之介のおどろきは、係官のそれとは違っていた。
「僕が撃ったなんて、誰がいいました。とんでもないことをいう……」
「いや、私は今、あなたが兄さんを撃ったとはいわなかったつもりですが、あなたはそういう風におとりになった。それはともかく、何者かが旗田鶴彌氏射撃に使ったピストルを、あなたは家政婦の部屋に隠した。なぜです」
「そんなことは嘘だ」
「あのとき押入の中に、小林さんの愛人の芝山宇平氏が隠れて居たんですよ。あなたがピストルを空の花瓶に入れたとき、こつんと音がしたことまで芝山氏は証言しています」
 亀之介は、思わず舌打ちせした。そしてそのあとで、まずい舌打をしたと気がついて、帆村の顔をちらりと盗み見した。
「外出先から帰宅せられたあなたは、家政婦を呼び出して、コップへ水を一ぱい持って来るように命じ、家政婦が勝手の方へ行った留守の間に、あなたはピストルを持って家政婦の居間へ入り、それをしたのです。そうでしょう」
「知らんですなあ、そのことは……」
「じゃあ別の方面から伺いましょう。あなたはあの夜、三度この邸へ帰って来て居られる」
 帆村が意外なことをいい出したので、係官の顔がさっと緊張する。当人の亀之介も、びくんとした。
「第一回は午後十時三十分から十一時の間、第二回は午後十二時から零時三十分の間、そして第三回は、家政婦を起して家へ入れてもらった午前二時。この三回ですが、そうでしょう」
「とんでもない出鱈目だ」
 亀之介はすぐ否定したが、語勢は乱れを帯びていた。
「東京クラブの雇人たちが証言しているところによれば、あなたは右の時刻前後に亙る三回、クラブから出て居られる。第一回と第二回のときは、帽子も何も預けたまま出て居られる。第一回は窓からクラブの庭へとび下りた。第二回のときはクラブの調理場をぬけて裏口から出た。第三回目は玄関から堂々と出られた。このときは帽子も何も全部、預り処から受取って出た。そうでしょう」
「知らないね、そんなことは」
 亀之介は否定したが、語勢は一層おちた。
「第一回のときは、この邸の庭園に入り、その窓の外から室内を窺った……」
 亀之介はぎくりとして、窓枠にかけていた手を引込めた。
「あなたは室内に於て、兄の鶴彌氏と土居三津子の両人が向きあっているところを見た。そこであなたは、時機が悪いと思って、庭園を出てクラブへ引返した」
「君は見ていたのかい。見ていたようにいうからね」
 亀之介は、やや元気を盛り返した。
「第二回目は、あなたがその窓から室内を窺うと、もはや三津子氏の姿はなく、兄の鶴彌氏ひとりになっていた。その鶴彌氏は、そこにある皮椅子に腰かけ、左手を小卓子の方へ出して、ぐっすり睡っているように見えた。実はこのとき鶴彌氏はもはや絶命の後だったんだが……」
 帆村は、亀之介の言葉を待つかのように、そこで語をちょっと切った。だが亀之介は何もいわなかった。

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