は、家政婦の小林トメという中年の婦人と、被害者の弟の旗田亀之介の二人だけで、その外には毎日通勤して来て昼間だけ居合わす者として、お手伝い[#「お手伝い」は底本では「お伝い」]のお末(本名本郷末子)と雑役の芝山宇平があると答えた。お末は二十二歳。宇平は五十歳であった。
「或いはそういう連中のうちに、ピストルを隠している者がいるんじゃないかねえ。それを調べておくんだよ、まだ調べてなければ……」
「はあ、調べます」
大寺警部は、まだそれを調べてなかったのである。
「で、その家政婦と弟の両人は、昨夜居たのか居ないのか、それはどうかね」
「家政婦の小林トメは、夕方以後どこへも外出しないで今朝までこの屋根の下に居りました。それから被害者の弟の亀之介ですが、当人は帰宅したといっています。その時刻は、多分午前二時頃だと思うと述べていますが、当時泥酔していて、家に辿りつくと、そのまま二階の寝室に入って今朝までぐっすり睡込んでしまったようです。当人はさっきちょっと起きて来ましたが、まだふらふらしていまして、もうすこし寝かせてくれといって、今も二階の寝室で睡っているはずです。もちろん逃げられません、監視を部屋の外につけてありますから」
それを聞くと検事は軽く肯いた。それから彼は遺骸の前の小卓子の上を指して、
「その卓子の上に並んでいる飲食物や器物は誰が搬んで来たのかね。それは分っている?」
「はい分って居ります。洋酒の壜《びん》以外は、家政婦の小林トメが持って来たものに相違ないといって居ります。それは午後九時、家政婦が地階の部屋へ引取る前に、用意をして銀の盆にのせて持って来たんだそうです」
検事は引続き軽く肯きながら、小卓子の上を見まもった。盛合わせ皿には、燻製の鮭、パン片に塗りつけたキャビア、鮒の串焼、黄いろい生雲丹、ラドッシュ。それから別にコップにセロリがさしてある。それからもう一つちょっと調和を破っているようなものが目についた。それは開いた缶詰だった。半ポンド缶であったが、レッテルも貼ってない裸の缶であった。何が中に入っていたのか、中は綺麗になっていたから窺う由もない。
その外に小型のナイフとフォークにコップの類。開かれたるシガレット・ケースとその中の煙草。それから別にきざみ煙草の入った巾着とパイプ。灰皿に燐寸。燭台が一つ。但し蝋燭はない。あとは四本の洋酒の壜に、炭酸水の入ったサイフォン一壜。――これが卓子の上のすべての品物だった。
灰皿の中には、吸殻の外に、紙片を焼捨てたらしい黒い灰があって、吸殻を蔽っていた。
検事の目は、これらの物の上をいくたびもぐるぐる廻っていたが、そのうちに大きく視線を廻して戸口の方を見た。
裁判医の古堀博士が入って来たのである。
どぶ鼠
「わしを呼ぶんなら、もっと早く連絡してもらいたいもんだね。今日は野球が見に行けるものとその気になって喜んでいるところへ――玄関まで出たところへ君たちの勝手な電話さ。一体殺人事件は夜中に起るもんだから、その翌朝の一番電話で、わしのところへ連絡してもらいたいね。そうしないと、さっぱりその日の予定がたたないやね。予定がたたないばかりか、今日みたいに甚だ不機嫌にならざるを得ないじゃないか。よう、これは長谷戸さん。今のわしの長談義を、君もちゃんと覚えていて下さいよ。……それで、御本尊はどこに鎮座ましますのかな。ああ、あれか。わしより若いくせに、早やこの世におさらばの淡泊なのが羨しいね」
古堀老博士は、例のとおりに喋り散らしながら、携げて来た大きな鞄を、被害者が占領している安楽椅子の右側に一度そっと置いて、それから錠前をはずして大きく左右へ開いた。鑑識用の七つ道具がずらりと店をひろげた恰好だった。
検事一行や大寺警部たちが、老博士の機嫌をこれ以上悪くしない程度の距離をもって、大きく円陣をつくって取巻いた。
古堀博士は、ゴムの手袋を出してはめ、眼鏡をかけかえると、前屈みになって死人の顔に自分の顔を寄せた。それから手を伸ばして死体の瞼を開き、それからだらりと垂れている左腕を死人の服の上から掴んでみた。それがすむと、いよいよ自分の顔を死人に近づけて、鼻の上に皺をよせた。そのあとで立ち上った。椅子のうしろをぐるっと大まわりをして、死体の向う側、つまり死体の左側へ出た。そこで彼は始めて被害者の頸のうしろに於ける銃創を眺めたのであった。
古堀裁判医は、小首をかしげた。
彼は再び椅子のうしろを廻って左の場所に取ってかえし、鞄の中から二三の道具を取出すと、それを持って死体のうしろへ廻り、器具を使って傷口の観察にかかった。それは、この部屋へ入って来たときの彼の忙しそうな口調に似ず、実にゆっくりした念入りなものであった。最後にこの裁判医は、こっくりと肯いてから身体をまっすぐにし、腰を叩いた。
「もういいですか、古堀さん」
と長谷戸検事が声をかけた。検事は煙草ものまないで待っていた。
「とんでもない。急いで物をいう裁判医をお望みなら、これからはわしを呼ばないことだね」と古堀はいって仕事をつづけた。しかしその言葉が持つ意味ほど彼は不機嫌ではなかった。
「この死体を床の上へ移して裸にしてみたいんだが、差支えはないかね。ほう、差支えがなければ、君がた四五人、ちょっとここへ……」
古堀医師は、巡査や刑事の手で死体を安楽椅子から絨毯の上に移させた。それから彼の手で、死体の服を剥いた。そして全身に亙って精密なる観察を遂げた。
彼が腰を伸ばして、検事の方へ手を振ったので、彼の検屍が一先ず終ったことが分った。
「検事さん。この先生の死んだのは大体昨夜の十一時から十二時の間だね。死因は目下不明だ。終り」
たったそれだけのことをいい終ると、古堀医師は、部屋の一隅のカーテンの蔭にある大理石の洗面器の方へ歩きだした。
「ちょっと古堀さん」
と検事はあわてて裁判医を呼び停めた。
「死因は後頭部に於ける銃創じゃないんですか」
誰も皆、検事と同じ質問を浴びせかけたいところであろう。すると裁判医は、歩きながら首をかるく左右に振った。
「お気の毒さま。死因ハ目下不明ナリ。頸部からの出血の量が少いのが気に入らない……。死体はわしの仕事場へ送っておいて貰いましょう。解剖は午後四時から始まり、五時には終る」
老人は、ぶっきら棒にいった。死因は目下不明なり、頸部からの出血の量が少いのが気に入らない――との言葉は、俄然一同に大きな衝動を与えたらしく、そこかしこで私語が起った。多くはこんな明白な盲管銃創を認めるのを躊躇する古堀老人の頑迷を非難する声であった。
そんなことは意に介しないらしく、古堀裁判医は洗面器の方に歩みよった。
「やあ、これはすまん」
老人がいった。一人の長身の男が、古堀医師のために、洗面器のあるところの入口に下っている半開きのカーテンを押し開いて、老人が通りやすいようにしてやったからであった。その男は余人ならず、帆村荘六であった。
この帆村荘六は、さっき古堀医師が首を左右に振ったときに、それと共振するように首を左右に振った唯一の在室者だった。
古堀は、洗面器の握り栓をひねって、景気よく水を出した。そしてゴム手袋をぬいで、持参の小壜から石鹸水らしいものを手にたらして、両手を丁寧に洗った。
彼がタオルを使い出したとき、帆村がつと近づいて、相手だけに聞えるような声で、
「先生。おみ足のそばに鼠が死んでいます」
と注意した。
老医師はびっくりして飛びのいた。そして大きく目をひらいて洗面器の下を見た。壁と床との境目が腐れて穴が明いていた。その穴から一匹の大きなどぶ鼠がこっちへ細長い顔をつきだしたまま動かなくなっていた。
「愕かせやがる。大きな鼠だ。なにもわざわざこんなところで殉死しないでもよかろうに……」
古堀は、そういって帆村を見て軽く会釈した。
「御同感です、先生。……いずれ先生には[#「いずれ先生には」に傍点]、もう一度お目にかからせますでございます[#「もう一度お目にかからせますでございます」に傍点]」
帆村は頗る妙な挨拶をした。冗談かと思われたが、彼は滑稽なほど取澄ましていた。
「えっ、何だって。はははは……。うむ、十時半か。これなら野球試合に間に合うぞ」
古堀老人は、急にえびす顔になって、洗面器のある場所から離れた。
弾痕なし
裁判医が退場すると、現場は急にしいんと静かになった。そして真中の安楽椅子に腰を下ろしている屍体が、今にも立上って大|欠伸《あくび》をするんじゃないかと思われたほどだった。
「あの古堀老人と来たら、われわれの立場というものを全然考えないんだからなあ。全く困りますよ」
大寺警部が、遂に口を切った。警部は誰にともなくそういったが、その後で、同意をもとめるように、長谷戸検事の顔を見た。検事は部屋の隅の小さい椅子に腰を下ろして、頭の大きなパイプから煙を吸っていた。検事は、黙ってパイプを噛んでいた。
「どうなさいます、検事さん。裁判医の屍体解剖が終る夕刻まで、この先生の死因は不明ということにして置きますか。それじゃわれわれは何にも手が出せないんですがね」
警部は、こんどは検事を指名して、はっきり不平をいった。
長谷戸検事は、それでもちらりと目を警部の方へ動かしただけで、喫煙の姿勢を崩そうともしなかった。
「これだけ明らかな銃創による殺人を、これからあと半日も疑問にしておくなんて、いけませんよ。そうでなくても、一般からは事件の捜査や裁判が遅すぎると非難ごうごうたるものですからなあ」
大寺警部はいよいよ独特の奇声をふりしぼって不満をぶちまける。
長谷戸検事はようやく立上った。ポケットから長方形の缶を出し、その中へパイプを収《しま》った。
「大寺君」
「はあ」
警部は、うれしそうに返事をして、検事の顔をみつめた。
「死因不明としておいて、その外にもっと調べることが残っているから、その方を先に片づけて行こうじゃないか」
「はあ」
警部は当て外れがしたというような顔になって、
「私の方はもう殆んど全部、捜査を終ったんですが、検事さんの方でまだお検べになることがあればお手伝いいたします」
「それならば力を貸してもらいたいが……あの鼠の死骸だが、あれは君がこの邸へ来たときに既に死んでいたのかね」
検事は大股で、部屋を横切って、洗面器のあるカーテンの方へ歩いていった。
「はあ。鼠でございますか……」
大寺警部は狼狽の色を隠し切れなかった。そして検事の後を追いかけた。
帆村は、検事と警部のために黙ってカーテンを明けてやった。
「ああ、鼠が死んでいる。検事さん。私はどぶ鼠など問題にしている暇がなかったんですが、やっぱり問題にすべきでしょうか」
警部は弁明にどもりながら、ちらりと帆村へ険しい一瞥をなげつけた。
「そう。事件捜査に当る者は、一応現場附近に於けるあらゆる事物に深い目を向けてみるべきだと思うね。殊に、その事物が尋常でないときには、特に念入りに観察すべきだな」
「はあ。どぶ鼠が死んでいるということは、尋常ではありませんですかな。すると、犯人はそのどぶ鼠を狙い撃ったのですかな。そうなると、犯人は射撃の名手だということになりますね。……おやおや、このどぶ鼠は、どこにも弾丸をくらっていませんですよ」
警部は、紐を鼠の首へかけて結び、穴から引張り出して一瞥したが、早速鼠の狙撃説をくつがえした。尤も鼠の狙撃説は、彼自らがいい出したことであったが――。
「まあ、そうだろうね」
と検事は苦笑して、それから頤を帆村の方へ振った。
「そこに居る帆村君が、その鼠を欲しがっているようだから、氏に進呈したまえ」
「ははあ」
警部は、わざとらしく愕いて帆村の面上へ目を据えた。それから死んだ鼠を、うやうやしく帆村の方へ差出した。
「ありがとう。じゃあお預りします」
と、帆村はその真面目な顔で、警部の手から、鼠の身体を吊り下げている紐を受取った。
「帆村君。何か分ったら、一応それをわれわれに報告する義務はあるわけだよ」
検事は、鼠の死骸について
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