在ったかという問題になるが、わしにははっきり分らない。どうしてあのような強い心臓麻痺が、あの肉体に起ったか分らない。これじゃ何が裁判医だ。まことに汗顔の至り……」
古堀博士は大真面目[#「大真面目」は底本では「大真面白」]で、ぺこんと頭を下げた。これには一同が愕いた。古堀博士が仕事のことで頭を下げたのは、始めて見る図だったから。
「尤もわしは昨日以来、この問題に深い興味を持って研究を開始している。屍体は当分わしの手許に預って置く。報告すべき主なことは以上だ。あとは質問があればお答えする」
博士は腰を下ろし、誰かの質問を待つ心構えで、天井を見上げた。
「当人の病気以外には、どんな場合に心臓麻痺を起しますかねぇ」
長谷戸検事が真先に質問の矢を放った。
「中毒による場合、感電による場合、異常なる驚愕打撃による場合……でしょうな」
「旗田の場合は、その中のどれに該当するのか、カテゴリーだけでも分りませんか」
「感電ではない。もし感電であれば、電気の入った穴と出た穴との二つがなければならず、また火傷の痕がなければならぬ。そういうものはない。だから感電ではない。従って他の二つの場合、すなわち中毒に原因するのか、或いは異常なる驚愕等によるものかどっちかでしょうな」
「そのどっちだか分らんですか」
「分らんねえ。研究の結果がうまく出れば分るかもしれん」
長谷戸検事は、小さく肯いて、心の中に何かノートをとるらしく見えた。
「ちょっと伺いますが」
と大寺警部のきんきん声がした。
「ピストルの弾丸が頭の中に入った時刻と、死んだ時刻との差はどの位だか分りますか」
「あまりはっきり分らんね」
「大体何時間ぐらい後になりますか、ピストルの弾丸を喰らったのは……」
「何時間というような長い時間じゃない。極く接近しているよ。一時間前後という所だ」
「すると、死んだのは十一時半、ピストルの弾丸を喰ったのは零時半という訳ですね」
「そんなところだ」
古堀博士はぶっきら棒に応えた。
「解剖の結果、胃の中にあった食物の一覧表は出来ていますね」
検事が、もう一度発言した。
「それは先刻、書記へ渡しておいたがね」
「いや、そんなものは頂きませんですよ」
色の真黒な書記が、すっくと突立って打消した。
「そんな筈はない。ちゃんとわしは書いて――ああ、あった。ポケットの中に残っていた。これじゃ」
博士は笑いもせず、内ポケットから、皺くちゃになった紙片をつかみ出して、机の上へ放り出した。くすくすと笑う者があった。その胃内容物一覧表は、長谷戸検事の手に渡って、拡げられた。帆村は立上ると検事の背後へ行って、その表を熱心に覗きこんだ。
「もう質問はないかな。なければ帰るよ」
博士はもう腰を半ばあげた。誰も博士を停める者はなかった。博士がパイプに火を点けて、この部屋を出て廊下を五足六足歩いたとき、帆村が追って来て博士を呼び停めた。
「先生、あれはどうなりました」
「あれとは何じゃ」
「鼠です。鼠を解剖してご覧になりましたか」
「おお、そのこと……解剖はした。解剖はしたが、はっきり分らない。人間の心臓麻痺は一目で分るが、鼠が心臓麻痺したかどうかはちょっと分らんのでね。そのことも実は研究題目の一つにして、今やっているところだ」
「流石は先生ですね、大いに敬意を表します」
「何じゃと……」
「いや、つまり先生が、鼠を解剖して、やはり心臓麻痺かどうかを調べられたその着眼点のよさですね、それに敬意を――」
「わははは、何をいうかい」
と博士は破顔して
「今日中に分るだろうから、分ったら君の事務所へ知らせてやるよ」
博士はこの約束を果した。
その日のお昼のすこし前、帆村が旗田邸に居ると、事務所から電話がかかって来た。出てみると、八雲千鳥が当惑し切ったという旨で、
「さっきお電話が先生にありましたんですけれど、いくらお聞きしても自分のお名前を仰有いませんの、そしてただ先生に、“鼠も心臓麻痺じゃ”と、それだけを伝えてくれと仰有いましたんですけれど、何のことだかさっぱり分りません。ひょっとしたらその方は気が変ではないかと……」
「いや、分ったよ、八雲君。それは素晴らしい報告だ。鼠も心臓麻痺で死んだとね。いや全くそれは素晴らしい報告だ」
八雲千鳥は、帆村先生にも気が変になることが移ったのではないかと思い心臓をどきどきさせたことだった。
再出発
その日の午後になって、旗田邸へ検察係官は参集した。その朝の古堀裁判医の報告によって、新たな方向へ捜査を発展させる必要が出来たからである。
帆村荘六も、やはり案内を受けたので、定刻になって旗田邸へ入った。
長谷戸検事が、いつものように捜査進行の中心にいた。
顔触れの揃ったのを知ると、長谷戸検事は煙草の火を消して、別室から事
前へ
次へ
全40ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング