の鼻と口とを覆ったのである。
 コップの口は、ぐちゃりとなって、私の鼻と口とのまわりに密着した。――このコップは、口のまわりだけが粘質硝子《ねんしつガラス》で、できているので、こうすると、うまく顔に密着するのだ。
「あなた、しっかりしてください。気が変になったのでは……」
 と、マリ子が、さわぎたてるのを尻眼にかけて、私は掌にのせていた三つの黒い丸薬を、ぱっと足もとに投げつけた。
「呀《あ》っ!」
 とたんに、丸薬はとび散り、それに代って、うす紫の瓦斯が、もうもうと立ちのぼりはじめた。
「ああッ、毒|瓦斯《ガス》!」
 マリ子は、あわてて、座席から腰をあげ、自動車のハンドルに手をかけた。
 だが、毒瓦斯の効目《ききめ》の方が、もう一歩お先であった。マリ子は、ハンドルを握ったまま、顔色を紙のように白くして、どうと、前にのめったのである。おそるべき第五列の女スパイの死だ。
「おお、あぶない」
 私は、そのとき、快速力で走っていた自動車が、エンジンを停め、ゆうゆうと頭をふって、地下道の壁に突進していくのを認めた。運転手も、マリ子と名のる女スパイとともに、毒瓦斯にやられてしまい、レバーやハンドルから、手を放してしまったのである。
 私は、ぐにゃりと伸びた運転手の肩ごしに、手をのばして、ハンドルをぐっとつかんだ。
 片手でハンドルを握ったのだ。
 無理である。たいへん無理である。しかし私は、死にものぐるいで、ハンドルを左に切った。地下道の厚い壁はわが自動車めがけて、鋼鉄艦のごとく驀進《ばくしん》してきたが、私が、力一ぱいハンドルを切ったため、壁は、ぐーッと右に流れた。
「おお、これで衝突をのがれたか……」
 と思ったが、とたんに車体は、左に傾くと思う間もなく、呀っという間に、顛覆《てんぷく》してしまった。
 そのとき、自動車の硝子戸が、うまく壊れてくれなかったら、私はコップを鼻や口から外し、わが撒いた毒瓦斯により、自ら生命を縮めたかもしれない。コップを放すのが、窓硝子のこわれたよりも遅かったため、私の一命は、幸いに助かった。
 それでも、しばらくは胸が灼《や》けつくようで、とても気持がわるかった。私は、オルガ姫をよんで、外に助けだされた。
「ふん、おどろかせおった。このマリ子という奴は、どこの国のスパイだろうか」
 私は、マリ子の服を改めたが、彼女は悪心ぶかく、証拠になるよう
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