ゆだんはならない)。
とにかく、わたくしは、この一、二年この方、ふしぎな自分自身に気がついた。それは、わたくしの身体が、奇妙にも、誰にも見えなくなることがあるのだ。
一体こういう奇現象は、なにもわたくし一個人にかぎる現象でもなく、方々にこれと同じ現象をお持ち合わせの方があるのではないかと思う。彼等は、わたくしに較《くら》べて、ずっと賢明ないしは内気であるため、その秘密について告白されないで、普通なみの人間のように振舞っていられるのではなかろうか。実際は、そういう風に取り澄ましている方が、世間に浪も立たず、御自分自身も妖怪変化《ようかいへんげ》あつかいされず、まともなところから立派なお嫁さまないしはお婿さまが来ることが約束されているのを無駄にしないですむと考えておられる結果であろう。ところが、このわたくしは、そういう賢明人種とはちがい、至って生来無慾|恬淡《てんたん》の方であるからして、なにごとも構わずぶちまけて、一向に憚《はばか》らない次第である。
でも、他人さまのことは他人さまの御勝手ということにして置いて、わたくしは自分のことを詳《くわ》しく申し述べる所存であるが、まずこのわたくしが、初めて自分自身の消身現象に気がついたときの、あの戦慄《せんりつ》すべき思い出を語ろうと思う。
戦慄すべき思い出――などと書いたが、見掛《みか》けは、それほど戦慄すべき事件でもなかった。あれは一昨年の夏のことであったが、わたくしは勤めから戻って、一日の汗を、アパートのどろくさい共同風呂の中に洗いおとし、せいせいとした気持になって糊のかたくついた浴衣を身体にひっかけ、宵《よい》の新宿街の雑鬧《ざっとう》の中にさまよい出たのであった。どういうものか、人間というやつはすぐこうしたちぐはぐなことをやる。それはどうでもいいことだが、わたくしは、さんざん夜店をひやかし、あやしき横丁を残りなく廻りつくし、ニュース映画劇場を二つも見物し、挙句《あげく》の果は今はストックおん淋しきブラック・コーヒーを一杯とって、高速度カメラでとった映画の如く、いとも鄭重なるモーションでもって一口ずつ味わいくらべつつやったもんだから、時計の針は十時を指していたが、外へ出てみると、あの雑鬧の巷《ちまた》が人っ子一人いないというほどでもないが、形容詞としてはそれに近いさびれ方であって、真の時刻は十二時をしたたか廻っ
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング