上唇にかけて、大きな膏薬がはりつけてあり、そのせいかたいへん低い鼻声しか出せない。太刀川は、ケント夫人が皮膚病をわずらっているのであろうと思った。お金がうんとあっても、病気に悩んでいるらしいこの老夫人に同情の心をもった。
「やや、なんだ、鉄棒かとおもったら、この安もののステッキが、俺の向脛《むこうすね》をぐりぐりぶったたいていたんだ。けしからんステッキだ」
 酔っ払いのリキーが、またどなりだした。そのとたんに、太刀川がついていたステッキが、あっという間につよい力でもぎとられた。リキーは、それを頭上にさしあげた。
「このステッキは、誰のか。俺の向脛を折ろうとしたこのステッキは、一体誰のか。さあ名乗らねえと、あとで見つけて、素っ首をへし折るぞ。ええい、腹が立つ、この無礼なステッキを海のなかへ叩きこんでしまえ」
 リキーは乱暴にも、ステッキを海中へ投げこもうとした。
「待て。それは僕のステッキです」
 太刀川は、さっきから、そのことに気がついていたが、どうしたものかと考え中であった。大任を持つ身の[#「持つ身の」はママ]、こんな小さなことで喧嘩したくはなかったが、原大佐から親しくさずけられた貴重なステッキを奪われ、海中になげこまれたのではもう我慢ができない。
「な、なんだ。貴様のステッキか。じゃ貴様だな、俺の向脛を叩き折ろうとしたのは。さあ、なぜ俺を殺そうとしたか。この野郎、ふざけるな」
「ステッキをかえしてくれたまえ」
「いや、駄目だ。おい放せ。ステッキは捨ててしまう」
「いや、かえしてください」
 太刀川は大男の手からステッキをもぎとった。
 これを海中へ捨てられてなるものか。
「あ痛。うーん、貴様、案外力があるな。よし、それなら決闘を申しこむぞ。俺はこのモーター・ボートが飛行艇につくまでに貴様の息の根をとめにゃ、腹の虫がおさまらないのだ。さあ、来い」
「リキー、およしよ。三度目の注意だよ」
 老夫人が、にがにがしい顔で、リキーの横腹をついた。リキーは、いまや太刀川の頭上に、栄螺《さざえ》のような鉄拳をうちおろそうとしたところだったが、このときうむと唸《うな》って、目を白黒、顔色がさっと蒼ざめて、その場にだらんとなってしまった。
 太刀川は意外な出来事に眼をみはった。彼は、リキーになにもしないのに、伸びてしまった。結局、老夫人ケントがリキーをどうかしたらしいのであるが
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