作るときの要領と同じことであった。こんな調べを経て脳の表面にもまた内部にも何等の異常がないことが分った。全く有難いものであると思った。ここまでやって貰わないと、死因なんてものは全く安心ならないものだと深く感動したことである。
医師は、切り開いた頭部をそのままに放置して、今度はまた元のように、屍体の脇に位置を移した。これからいよいよ腹腔にかかるのだということが分った。その辺で一度大きな呼吸をしてみたくなった。
しかし解剖医は一秒も無駄にしない。頭の皮を剥《む》いたり、鋸を引いたり、鑿を使ったりして、ずいぶん力を使ったろうと思うのに、彼はなんの疲労も顔に現さない。何の表情もない。その姿はまことに神々しいものであった。
医師はメスを右手に持って、咽喉の下のところから、胸、腹、臍《へそ》と、身体の真中をズーッと切り下げた。メスは一度に使うのではなく、腕を一とふりしてサーッと十センチほど皮膚を切ると、またその続きをサーッと腕をふるうのであった。これをくりかえし、下腹部にまで及ぶと、そこでメスは停った。これだけみていると、メスの切れ味の並々ならぬことがよく分った。それとも人体というものは、そんなに切りやすいのであろうか。
解剖医は、そこで切った皮膚と筋肉とを左右に開いた。これは洋服の釦《ボタン》を外して両方へ展《ひろ》げるのと、なんの異るところもない。洋服の場合は、その下から襯衣が見えてくる代りに、この屍体の場合には、下からは筋肉や内臓が飛びだしてくるというだけの相違である。
もちろん内部は真赤だ。
しかし僕はそんなに愕きはしなかった。内部は、魚の腹を開いたのと同じようなものである。また兎の解剖でみたのと、大同小異であった。ただこれは、人間の腹の中だという所属的の違いだけのことで、愕くほどのことはなかった。しかし内臓はなんとなく内部から外方へプリプリと飛び出してきたような感じがした。
医師はそのときメスを上の方へ戻して、胸のところを丁寧に開いた。そして左右の肋骨《ろっこつ》の上を、メスでもってスーッスーッと二本の筋を引いた。それから手でもって、胸骨を、まるで蓋をとるような塩梅《あんばい》で外した。するとなかからは、肺臓と心臓とが顔を出した。後から考えてみると、このとき胸腔と腹腔との中は真赤だったのだ。しかし実際このとき僕は、すこしも赤いということを感じなかった。赤いのが当り前に感じられた。というか、それとも何もかも、あまりに赤くて、全体的な赤さが、僕の赤に対する感覚を麻痺《まひ》させてしまったという方がいいかも知れない。
この屍体が、解剖学で習ったと同じような内臓を持っている当り前さ、それから医師が肋骨をまるで障子でも外すような手軽さで外したことの可笑し味と、この二つが僕の心に印象を植えつけただけであって、愕くことは一向になかった。
解剖医自身はもちろん少しも愕いてなどいない。
彼はまず盛んに長い腸を改めた。まるで網を漁夫が拡げてみるのと変りがない。それから彼は糸を出して、腸の一方を結び、そして切断した。それからメスを腸の切口に入れてスーッと開いていった。どこまでもどこまでも開いてゆく。それはどうやら腸の内容物を調べてゆくらしい。結局、腸は全部切り開かれ、その上でソックリ両手でつまみだされた。大腸というものは、文字どおりに大きく著しく目についた。
開かれた腹腔や胸腔は、依然として真赤である。胃袋や肝臓や心臓や肺臓が、いちいちそれとハッキリ分る。もし地面の上に腸の切れ端が落ちていたとして、それを見つけた自分が何だろうと思っていぶかっているうち、誰かがそれは人間の腸だぜと教えたとしよう。恐らく自分はそれがたとい十センチばかりの腸であったとしても、人間のものだと思えば、途端《とたん》に吃驚《びっくり》してウーンと気を失ってしまうであろうと思う。しかし只今の場合のように、次々の場面を経て、こう沢山の赤い内臓が並んでいるのでは、一向恐ろしく感じない。解剖医の白い手袋は手首の上まで血で真赤になっていた。しかも僕にはそれが血のように感じられない。何か赤インキの中へ手を突込んだのと一向変りがなく感ぜられるのであった。人間というものは、慣れるとこうも鈍感になるものか。僕はさきほどまで脅された解剖屍体をすこし軽蔑し、そしてすこし気をゆるませたのである。
医師は次いで胃袋を切り開いた。腸の場合と同じく、内容物を検しているのは明らかであった。胃の中は、なんだか暗灰色に見えた。しかし中には何も入っていなかったようである。かくして切開された胃袋は切り放たれて、また外に摘出された。そして腸の隣りに置かれた。
それから肝臓などがメスでもって切り放たれ、同じように外に置かれては、ズタズタに切り刻まれた。
心臓も取り出された。その中も入念に切り開
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