それで屍体に附着している血痕をきれいに清めてやるのだった。
助手が白木綿をつなぎ合わせて作った繃帯《ほうたい》をもってきた。それを受取った医師は、まず屍体の頭に鉢巻をさせた。縫った傷口がすっかり下に隠れてしまった。繃帯のつづきは、後頭部を通って屍体の鼻の下から頤《あご》全体を包んだ。外に見えているのは、眼と鼻とだけである。
繃帯はなおも伸びて、咽喉をグルグルと巻いた。それから両の腕の下に斜めに懸った。それからまた胴をグルグルと巻いて、だんだん下に下って来た。
股のところまで包んで、繃帯まきは完全に終った。解剖台の上には、屍体の中から取り出した内臓の一片だに残っていなかった。ただ残ったのは、バケツに移した血液だけだった。
それから助手が、別のバケツに、何べんも熱い湯を搬んできた。その中で、医師はまず解剖器械を洗った。それから二重の手袋をぬいだ。
クレゾールを湯に入れた新しいバケツの中に、医師は静かに両手を入れた。そして丁寧にいくども手を洗った。それから血に汚れた手術衣を外した。
次に洗面器に、新しい湯を貰ってきて、その中に手をつけると、石鹸を十分につけてゴシゴシと洗った。そうして始めて手拭を出して、両手をよく拭った。
見物していた連中は、そこでハーッと溜息をついた。それは深い深い溜息であった。屍体を迎えるために、車のついた白い台が再び入口から入って来た。解剖医はもうその方には見向きもしないで、洋服の上衣に腕をとおしていた。――
こうして解剖は終った。
その後で、この医師から解剖でたしかめたところの報告がなされる筈であった。僕はすっかり満足して、席からたちあがった。そしてポケットから「暁」を一本ぬきだして口に銜《くわ》えた。
時間を見ると丁度一時間半経過していた。お医者さんもずいぶん疲れたことだろう。そう思って下を見ると、医師は入口の傍に立って、ただ一人うまそうに莨《たばこ》をすっていた。それはいかにもうまそうに見えた。
底本:「海野十三全集 別巻1 評論・ノンフィクション」三一書房
1991(平成3)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「シュピオ」
1937(昭和12)年1月号
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年6月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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