ず》だった。そうすれば、今夜も亦《また》、怪談だけで済んでしまうことだったろう。全く間一髪の出来事だった。遂に彼は血のついた怪しい男を捕えた。夜が明ければ、空気工場へ自転車で行ってみよう。きっとまた誰か、今夜のうちに失踪しているに違いない。それは一体誰だろうか?
 かの巡査は、だんだん、昂奮してくる自分自身を感じながら、所轄のK町警察署へ、深夜の非常電話のベルを鳴らした。


     2


 殺人鬼捕わる!
 庄内村はひっくりかえるような騒ぎだった。中にも一番|駭《おどろ》いたのは、所轄K町署員だった。血まみれの怪漢を庄内村の交番で捕えたという報があったので、深夜を厭《いと》わず丘署長が先登《せんとう》になって係官一行が駈けつけた。これを一応調べて、とりあえず臨時の調べ室を、丁度《ちょうど》空いていた村立病院の伝染病棟へ設け(これはちょっと変な扱い方だった)怪漢をその方へ移す。そのうちに夜が明けてホッと一息ついたとき、そこへ電話が掛って来て、ゆうべ西風の妖魔が、空気工場から若き珠江夫人を奪っていったという悲報を伝えた。これは大変だというので、丘署長の一行は、徹夜をして血走った眼を一層赤くしながら、自動車を飛ばして問題の空気工場へ駆けつけねばならなかった。それにしても七人目の犠牲者は今までとはガラリと変って、この空気工場の女王、珠江夫人だとは実に意外な出来事だった。
 丘署長は、リューマチの気味で痛い腰骨《こしぼね》を押えながら、空気工場の門をくぐった。それは何という不気味な建物だったろう。本署の台帳によってみると、この空気工場の営業品目は、液体空気、酸素ガス、ネオンガス外《ほか》数種、それに気球ということであったが、その一風変った営業品はこんな奇怪なる建物から生れるのかと思うと、変な気がした。
 正面の本館というのを入って、応接室に待っていると、そこへ二人の人物が入ってきた。
「やあ、これはどうも……」
 と、先に立った頤髭《あごひげ》のある土色の顔に部厚の近眼鏡をかけた小男が奇声でもって挨拶《あいさつ》をした。それは工場主である理学博士|赤沢金弥《あかざわきんや》と名乗る人物だった。
「私が技師の青谷二郎です。――」
 続いて後に立っていたのが、こんな風に名乗りをあげたが、これは工場主とはちがって、すこし才子走《さいしばし》っているが、容姿端麗なる青年だった。
「一体どうしたのかネ」と署長は無遠慮な声を出した。
「こう再三失踪者を出すということについては、君の責任を問わにゃならん」
 そういわれた赤沢博士は、眼玉をギョロつかせて署長を睨《にら》み据《す》えた。
「三年来の失踪者が判らんのでは、わし達も警察の存在を疑いたくなりますよ。早く家内を探し出して下さい」
 青谷技師は、その後方で一人気をもんでいる様子だった。
 署長は「では何もかも言うのですぞ」と一喝《いっかつ》して置いて、まず工場主から夫人失踪前後の模様を聴取した。
「わしは昨夜十時頃まで工場にいました」と博士は口だけを動かした。「わしは調べものがあったから、本館二階の自室で読書をしていたのです。十時を打ったので灯を消し、本館を出て、別館へ帰りました。そこはわしと家内との住居《すまい》に充《あ》てているのです。ところが家内は私を出迎えません。わしは家内の部屋へ行ってみました。家内はそこにも見えません。いろいろ探しましたが影も形もありません。それからこっち、家内を一度も見掛けないのです。わしの知っているのは、それだけです」
「君は夫人がどうしていると思っていたのか」
 と丘署長が尋ねた。
「はい、多分ベッドに寝ていることと思いました。しかしベッドはキチンとしていまして別に入った様子もありません」
「灯りは点《つ》いていたかネ」
「いいえ、点いていませんでした」
「お手伝いさんかなんかは居ないのかネ」
「一人いたのですが、前々日に親類に不幸があるというので、暇を取って宿下《やどさが》りをしていました。だから当夜は家内一人きりの筈です」
「何という名かネ。もっと詳《くわ》しく云いたまえ」
「峰花子といいます。別に特徴もありませんが、この右足湖《うそくこ》を東に渡った湖口《ここう》に親類があって、そこの従姉《いとこ》が死んだということでした」
「君は夜中に夫人の失踪に気付きながら、なぜ人を呼ばなかったのだ」
「わしは青谷技師以外の[#「以外の」は底本では「意外の」]者を頼みにしていません。それでこれを呼びたかったのですが、技師の家は湖水の南岸を一キロあまり、つまり湖口《うみぐち》なのですからたいへんです。昼間なら一台トラックがあるのですが、いつも技師が自宅まで乗って帰るので、その便もありません。それで夜が明けて出勤してくるのを待つことにしたのです。第一、わしはもう十年以
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